前回のブログに、
あなたはどんな具体的な問題に対する答えでも聖霊に尋ねるようにと告げられ、その必要があるなら具体的な答えを受け取るだろうと教わってきた。あなたはまた、一つの問題と一つの答えがあるだけだとも、教えられてきた。祈りにおいては、これは矛盾していない。ここでは、決定すべきことがらがあり、それらは幻想であろうとなかろうと決定されなければならない。あなたが認識できるレベルの必要を超えた答えを受け入れるようにと、あなたに求めることはできない。したがって、重要なのは質問の形ではなく、その訪ね方でもない。答えの形は、もしそれが神により与えられたものであれば、あなたが見ている通りの必要に合致するだろう。これは、単に、神の声からの返答のエコーにすぎない。真の音源は常に、感謝と愛の歌である。(奇跡講座 下巻 S-1.I.2.1:9)
この「エコー」の部分は、具体的な体験(五感でも感じられるこの世界の体験)のことです。
具体的な体験は、エコー。
だから、エコーだけほしい、ということは、不可能。
これから、より、真の音源だけに、フォーカスしていきたい、真の音源をどんどん大きくしていきたい、と思っています。
ということを、書いていました。
それで、よくいただくお声は「愛がわからない」「感謝できない」「条件付けの感謝はわかるけど、無条件の感謝がわからない」などです。
こういうとき、まず、確認したいのは、「自分は何を望むか望まないか?」です。
「愛なんか知りたくないし、感謝もしたくない」(望まない)のか。
「愛がわからないと思ってるし、感謝できないと思ってるし、条件付けの感謝はわかるけど、無条件の感謝がわからないと思っているけど、愛を感じてみたい、愛を体験してみたい、心からの感謝をしてみたい」(望む)のか。
ここを、自分が自分に問わない限り、決めない限り、
「愛がわからない」「感謝できない」「条件付けの感謝はわかるけど、無条件の感謝がわからない」と言い続けることになりますが、
「愛がわからないと思ってるし、感謝できないと思ってるし、条件付けの感謝はわかるけど、無条件の感謝がわからないと思っているけど、愛を感じてみたい、愛を体験してみたい、心からの感謝をしてみたい」という気持ちを自分の中に見つけることができたら、
それだけでものすごく、素晴らしいことで、この望みは、必ず、答えられる、受け取ることができる、のです。
これって、ものすごいこと、だと思いませんか?
ものすごいことです。
それで、「愛がわからない」「感謝できない」「条件付けの感謝はわかるけど、無条件の感謝がわからない」と、思っているなら、それをそのまま認めてOK、
自分でわかろうとしたり、わかってるふりしたり、しても、さらにややこしいことになるだけ、なのです。
だから、どんなことでも、そのままを認めてOK。
その上で、自分が本当に望んでいることを、大事にしていきたい。
これを読んでらっしゃる方で「物理的望み・行動面での望みだけを考え続けてきた方」は、
それを使って、心の望み、心のモヤモヤを、見ないと、意味がないです。
なぜなら、内が先、心にすべての力があるから、です。
「物理的望み・行動面での望み」ここに、フォーカスしたり、ここをイメージングや妄想したり、するのは、確かに、「一見楽しい、一見ワクワクする」と感じられる場合もあるかもしれませんが、
「心の望み」これを一番にすること、ここが明瞭であることが、疎かになると、自分がしんどくなるはずです。
焦り、怒り、イライラ、がっかり、落ち着きのなさ・・引き寄せの法則や願望実現を学ぶことが、こういった心の苦しさにつながることも、非常によくあることのようなのです(だから、自分だけがと、孤独感を感じる必要もないのですが)
あとは「これだけは内観や祈りの対象で、これだけは自分でコントロールしなくっちゃ(時間、お金、ビジネス)」といったような「これだけは別、これだけはこの世界の法則」みたいな感じでわけたり、混ぜようとしたりするのも、
真の音源へのフォーカスを妨げるので、わたしはもう、この真の音源に全集中したい。
それはつまり「今までやってきた健康法をやめる」みたいなことではなくて、すべての事柄を、ありえないほどの喜びで驚きな奇跡、神からの贈り物を受け取る機会、癒しを受け取る機会として、その扉として、みることを決めました(例外なく)、という感じです。
本当に、どこがどう繋がってるかわからないというか、もっと言えば「問題も一つ、答えも一つ」だからです。
けれども、もう、これを、誰かのせいにしたり、引き寄せの法則のせいにしたりすることもやめて、
ただ、心の力、自分の内側の素晴らしさを思い出したい。
みんな、本当に、ものすごい、素晴らしいからです。