「こんなに愛してくださって、大切にしてくださって、嬉しい」と心から感じたい。
そう思うと、明確になってくるのは、自分がそのように感じられる心でありたい、ということ。
愛の受信送信感度だけが高い、純度100%の、ピカピカでありたい。
「誰かや何かの嫌いなところ、苦手なところ、ダメでしょって思うところ、もうどうしようもないと思うところ、ゆるせないところ(そんなふうに自分が見えてるところ、そう感じてるところ)」
これは、誰かに対してだけでなくて、ものだったり、過去だったり、未来だったり、天候だったり、身体だったり、エネルギーだったり、波動だったり、ありとあらゆるところで、
自分は「見て」、そして、「感じて」いる。
そして、この、誰かや何かへの、自分の「見方」「感じ方」「解釈の仕方」に、
ただただ、気づいていく。
すべてゆるされている、全肯定の中で、ただただ見ていく。
すべて愛してくれている、無条件の愛の中で、ただただ見ていく。
すると、自分が自分を責めて、嫌って、いじめて、呪っていることが、すごくよく感じられる。
「自分が自分を、責めて、嫌って、いじめて、呪っている」ということは、
「そんな自分は愛にふさわしくないから、だから、愛を受け取れない。豊かさも受け取れない。力も受け取れない。したいことができない。神様も助けてくれない。みんなとは違う。できない。自信もない。ない。足りない。今のままじゃダメ」と、
心の奥に、祈りじゃなくて、「呪い」の言葉を、自分で唱えていた、ということが、よくわかる。
誰のせいでも、なんのせいでもないから、呪うのをやめて、祈りたい、と思うだけでよかった。
そうやって、心に埋め込んでいた呪いの文句を、見つけて、やめたい、と思うたびに、
「こんなに愛してくださって、大切にしてくださって、嬉しい」と心から感じたい。
そう祈ると、「喜んで」と、答えてくださっていることが、すごくよく感じられる。
「こんなに愛してくださって、大切にしてくださって、嬉しい」と心から感じたいから、
心の目をピカピカに、しておきたい、とも、自然と思う。
いつだって、自分が自分の呪いから、ゆるされるだけ。
呪いなんて、もともとなかったと、ゆるされて、ただ、愛されちゃう、だけ。