なぜ「街へ出よう」なのかについて(2)

以前「出かける」とか「街へ出よう」というようなことをブログに書いたのですが、そのことについて。

このことについて「ええ〜(気が重い、めんどくさい)」となった方もいらっしゃると思う。

それを、ただ、尋ねてくださったクライアントさんが何名かいて・・という話の続きです。

 

 

それで、この「めんどくさい問題」なのですが、

わたしも「めんどくさい」は何度も経験がありますが、

これは抵抗の一種で、「呪縛が断ち切られようとしているサイン」みたいな感じなのです。

これを具体的に書くと、また、話が逸れてしまうので、脇におきます。笑

 

 

本題は、なぜ、今、出かける、なのか。

なぜ、街へ出よう、なのか、です。

これは、わたし自身、数年前(「コロナ禍」が終わるちょっと前くらいから)から受け取っていることで、

その結果見えてきたものがある、というものでもあります。

もちろん、文字通り「街に出かける」というよりかは「人と関わっていく」「人の中の光と繋がっていく」という雰囲気です。

 

 

「情報」は、今、とても簡単に、手に入ります。

お家の中にひとりでいても「暇をしない状態」も、簡単に手に入ります。

スピリチュアル・心系、自己啓発、成功する系・・なども、たくさんの情報があり、情報を受け取りやすくなっています。

無料でも有料でもです。

それで、実践も、しやすくなっていると、思います。(※内観や祈りに限らず、です)

実践したり、情報を知っていく中で、疑問が生まれても、その疑問に対する答えも、すでに誰かや何かが答えてくれていたりする。

 

 

こういった状況を踏まえて、現時点で、みっつ、浮かんでくるものがあります。

 

 

ひとつは”超感覚的”なものが開いてくる。

これは、特に、内観とか心と向き合うとか、自己との対話とか、マインド(価値判断)の浄化とか、

そういう系を実践していると、感覚が開いてきます。

いろいろあるでしょうが、例えば、不思議体験、シンクロ、すべて繋がってる感じがする・・というような体験です。

これは「普通のこと、みんなそうなる感じのこと」ということで、特別なことではありません。

本来の自分自身に戻るとは、そういうことです。

こうなると、ますます、「情報の引き寄せ」「疑問に思ってたことの答え」は受け取りやすくなります。

 

 

そして、二つ目が、自己完結、です。

「自己完結」。

「知ってる、わかってる」というような抵抗。

「一人でできるもん」的な状態。

「独身貴族」的な状態。

ひとりでも退屈しない時間を作りやすくなって「現状に満足」「特に不満がない」と、錯覚しやすくなってる。

自ら「ひとりの時間を好む」となって、それに満足していると錯覚して、孤独感やさみしさ、ネガティブ性を直視しにくくなり、抑圧されやすくなる。

 

 

みっつめは、出費が多い、です。

抑圧された、孤独感やさみしさ、劣等感、不安、恐れなどを、直視しないまま、それを紛らわすために、お金を使っちゃうので、出費だけが増えていっちゃう。

いわゆる「投資」な感じじゃなくて、「多すぎる消費、浪費」な感じ。一時的な満足。

意志ではなく、気分で動いちゃう場合、そして、力が外にあると思い込んでいる場合(自覚がない、手放してない、自分で自分を騙している場合)。

 

 

でも、こうして問題を感じても「問題解決のための情報やサービス」はたくさんあるので、

ますます、自分でなんとかできそう(自己完結)な罠にハマっちゃう。

 

 

けれども「本当に心が満たされる体験、喜ぶ体験、奇跡の体験」というのは、

「人と人との関わり、日常生活」の中で、”行われる”ものです。

この”行う”というのは、自分の心の向きが0.1、残りの0.9以上は神聖性が行ってくれます。

ここにおいて「奇跡の体験、具体的な体験」がある。

ここにおいて「豊かさ」というものは、広がっていく。

ここにおいて「神の力」というものを、感じていくことになる、体験していくことになる。

 

 

内観や祈りは「奇跡を見にいくための準備運動」「”エゴの恐れの決めつけ”が取り消されていることを見にいくための準備運動」みたいな感じでもあるかもしれません。

その上で「愛されていることを見に出かける」「受け取った直感に思い切って従ってみる」

「人、というよりも、人の中にある光とつながりに、会いにいく。光を受け取りに行く」のです。

抵抗があることほど、愛の奇跡が待ってる、ということです。

 

 

めんどくさいとか、嫌だとか、気が重いとか、

いろいろ理由つけて後回しとか、「〇〇になってからこうする」とか、

「こうすることがいいことなら、〇〇というサインを受け取るはずだ」とか、

こういう思考や重い感覚が出てくるものほど、「まっさらな心」と頭で唱えながら、行動することで、除霊、みたいな感じです。笑

普段自分がやり慣れてること、すでにサクサクできるものは、元々「おばけ」がいないので、除霊になりません。

「やりすぎてしまってることを、やめる」は、おばけがいるかもしれません。

いずれにせよ、おばけがいたら、抵抗があるはずです。

 

 

めんどくさいもの、嫌だというもの、気が重くなるもの、思考が大騒ぎして「やめとこう」ってなるものほど、です。

さらに、これを「自分が正しいと言い張るため、自分の計画通りに推し進めるため」みたいな感じで動いても「期待外れ」となるだけなので、

「まっさらな心」なのです。

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