麻薬級爆発的〇〇力をお持ちの皆様へ

最近、何名か「親睦会みたいなのをしたい」と言ってくださるクライアントさんがいらっしゃって、わたしの中にも「その様子」が自然と浮かび、楽しそうだなぁ、と思っていました。

1対1のセッションも楽しいし、Zoomのグループレッスンも楽しいですが、実際に会うということも楽しそうです。どちらも楽しそうです。楽しいが広がっていく感じです。

 

 

それで、前回のブログに、「公共交通機関を使った話」を書きました。

「公共交通機関に乗った」という、ただ、この具体的事柄自体が、わたしの中で嬉しかったわけではありません。

でも、家族や友人など、わたしをずっと見てくれている人というか、そういう人からしてみれば「公共交通機関を使った=驚くべきこと」に感じられたようだ、というようなこともたまにあります。

それで、このブログを読んでくださっている方の中は「公共交通機関を使えるようになりたい」「公共交通機関を使えないことによって悩んでいる」と思っている人の方が、少ないと思います、ゼロとは言いませんが、多分。笑

 

 

そんな中で、わたしが「公共交通機関を使いました」ということ「だけ」を話しても、

「へー、よかったですね」「すごいですねぇ」で、終わります。

すると、わたしは、なんだか、孤独感!となります。笑

 

 

さて、何を書きたいかといいますと。

わたしは、共有をしたい。

一体性というものを感じたい。

喜びを分かち合いたいし、すでにひとつ、同じひとつの光である喜びというもの感じてみたい。

あなたの光とわたしの光が本当にひとつなんだという奇跡。

わたしの中に神がいるから、この世界に、すべての人々の中に、神がいるという、絶対的安心感を受け取るということ。

 

 

そうする上で「公共交通機関」とか「バスとか電車とかタクシー」とか、

そういった形あるものにフォーカスしていたら、形は分かち合えないのです。

この具体的な形あるものというのは、なんだってそうですが、本当の意味での心の共有が、できないのです。

真の共有、つまり、心の共有ができていないと、心が繋がりを感じられず、孤独感を感じます。

もともとは「たったひとつの光」であるからこそ、それを思い出しはじめているからこそ、そういう時期だからこそ、

心が繋がりを感じられない、孤独感を感じる、ということが、自覚できる、ということです。

※通常は、こういう孤独感とか惨めさとか劣等感というものは、エゴにより「悪きもの」「恥ずべきもの」とされ、無自覚、抑圧、我慢、禁止されています。

 

 

もちろん「公共交通機関恐怖症の方限定」で集まって、共感しあう、という手もあります。

それも、いいのかもしれません。

 

 

けれども、わたしの中の何かは、今は、「この世界的共感」から「真の共感」へシフトしたい、といいます。

本当に共有できるものを共有して喜びを分かち合いたい、光に共鳴しあいたい、といいます。

ちなみに、「この世界的共感」とは「あなたの弱さとわたしの弱さは同じですね」「あなたの価値判断とわたしの価値判断は同じですね」など、そういう感じです。

例えば、

A子「うちの旦那、こうこうこうで、大変なのよ〜」B美「わかるわかる〜うちもよ〜困るわ〜」

などが「この世界的共感」です。

そして、これは、ある特定の時点においては「お手当」になります。

 

 

それで、今までのセッションを振り返ると、クライアントさん(読者さん)は、この「共感力」が強く、それが「この世界的共感」とされたとき、「お手当」を通り越して、鎮痛剤、いや、麻薬的な、感じの方が、多いのです。

それでですね。

麻薬ということはどういうことかというと、匙加減次第で、危険性、中毒性があるということです。

共感力を「この世界的なもの」に使うと、麻薬的になり、中毒性を持ち、孤独感、ひとりぼっち感が、なぜか深まる、ということがあります。なので、共感しているはずなのに、共有ができず、バラバラになっちゃう、永遠ではなく一時的になっちゃう、ということがあるのです。

 

 

そして、この「この世界的共感」というのは、あるときは「いつの間にか傷の舐め合い」「いつの間にかどっちの方が不幸かレース」みたいになる危険性がなくもない、ということです。

 

 

また他の例でいうと。

「断捨離のオフ会」みたいに、特定の具体的共通テーマで集まった場合。

ここも「断捨離」という具体的な事柄にフォーカスすると、「断捨離のオフ会」の仲間内では共感し合って楽しいかもしれませんが、「家に帰ったら家族がものを捨ててくれないでイライラする」とか「ものが増えるくらいなら結婚しなくていいかなと思うようになって、それを恋人に告げたらめんどくさいことになった」とか、そういうことも、出てきます。

さらに長い目で見ると、「断捨離のオフ会」の中でも「流派」が誕生し、最初は共感し合ってたはずなのに、いつの間にか細胞分裂し、対立し合う、あるいは、表向きは穏やかでも否定し合う・・もしそうなると、孤独感や疲労感は深まります。これは最悪の想定の話をしているのであって、否定しているわけではありません。

できれば断捨離オフ会(=同じ具体的共通テーマで出会った仲間たちとの交流)を、末長く、楽しみたい。豊かに、喜びたい。わたしはそれを望む。

 

 

「爆発的共感能力」を「真の」つまり「真理」に捧げると、もう、これは未知数です、すごくわくわくします、ですから、わたしは、これにシフトしたいのです、という感じです。

クライアントさんは(ということは読者さんも)、この「爆発的共感能力」がもともとある方がほとんどというか。でも、自覚がなかったり、禁止してる方もいらっしゃるし、(ガイドからの指示を受けた場合を除いて)わたしの方からずけずけ指摘するようなこともしていませんが、一括メール送信すると、そう、という感じです。

 

 

それで「公共交通機関」「断捨離」などの「わたし個人の特別なテーマ」というのは、これはなんでもいいのです、どっちでもいいのです。

わたしは、公共交通機関の話がしたいわけではないのです。

しかし、その公共交通機関の奥にある「たったひとつのもの」これは、共有可能です。

これは共有可能というか、これだけが唯一共有可能なものです。

 

 

なぜなら、たったひとつのものの中で、わたしたちは本当はひとつだからです。

でも、そのたったひとつの光というのは、この世界において、一人ひとりという人を通るとき、様々な現れ方をします。

様々な現れ方。たったひとつの様々な側面。

これは、ある意味では「〇〇さんでしか出せない味」みたいに見えることもあるかもしれませが、

しかし、たったひとつなので、根底でひとつなので、バラバラ感や孤独感や疲労感が、なぜか、ない。

違うのに、同じ。

違うと信じ込んでいたのに、同じだった。

「違うと信じ込んでいたのに、同じだった」という奇跡の体験、シンクロを、何度も何度も、受け取っていく中で、本当に同じで、ひとつなんだ、という感覚が、完璧な喜びと共に訪れます。

 

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