この前「風呂キャン」という言葉があることを教えてもらった。笑
ある方が「最近、絶対髪の毛洗ってないでしょみたいな人、多いんですよね〜。風呂キャンってやつですかね。鬱とかだったら仕方ないと思うけど」とお話しているのを聞いて、わたしは「ふろきゃん?」となった。
AIいわく「入浴を断念すること」らしい。笑
「入浴断念」というこっちの言葉のほうが、なんだか、ツボってしまう。笑
わたしは、ずっと昔に、鬱でお風呂に入れなくなった経験もあるし、
数年前に、鬱でもなんでもないのに、やたらと、お風呂に入るのがめんどくさくなって、深刻に悩みそうになっていたこともある。
この「鬱でもなんでもないのに、やたらと、お風呂に入るのがめんどくさい」という「現象」は、わたしにとって、多くの気づきやインスピレーションを与えてくれた。
そして、セッションでも、たまに「お風呂に入るのがもう、めんどくさくって、めんどくさくって。なにか助言をください」と言われることがあって、そのときに、わたし自身の経験などを思い出して、分かち合わせていただくこともある。とても、ありがたいことです。
どんな出来事でも、自分が受け取りたいように受け取ることができるんだと、これを書きながら、再度そう思った。
たとえば、お風呂に入る、ということ。
奇跡講座の中に「何もする必要はない」というセクションがあるんだけど、本当に何もする必要はなくて、
だから、お風呂に入る必要も、ほんとうは、ない。
まいどおなじみの「お風呂に入ってもいいし、お風呂に入らなくてもいい」というやつである。
それで、ここで、心に、問いかけてみたいことがある。
それは、
「わたしは、わたしの心の幸せのために、お風呂に入りたい?入りたくない?」
ということである。
「お風呂に入ってもいいし、お風呂に入らなくてもいい」
その上で、わたしは、どちらを望むだろうか?ということです。
「俺はいいけど、矢沢がなんていうかな?」
という言葉がありますが、
神様はどっちでもいいと言っているのです。
その上で「わたし」はどちらがいいかな?
みたいな感じです。
だから「お風呂に入らなければならない」とか「お風呂に入らないとみんなから白い目でみられて村八分にあう」とかじゃなくて。笑
わたしがわたしの心からの幸せのために、お風呂に入りたいかな?
ということです。
これを、心に聞く。
この一手間。
「わたしがわたしの心からの幸せのために、わたしはお風呂に入りたいかな?」
↑これを、聞くのは、4秒でできる。
今、ほんとうに、計った。スマホのストップウォッチで。
だから「繁忙期で、忙しくて、時間がなくて、できなかった」とか、ありえない。笑
たとえばですよ。いろんな状況があるでしょうから、たとえばですよ。
(別に鬱でもなんでもないのに)「お風呂に入るのめんどくさい。入りたくない」と、脳みそで叫ばれていて、
「お風呂に入りたくないんだね(いいよ)」と、して、それで、もう、4日もお風呂に入ってないとしましょう。
正直、ベトベトして気持ち悪いし、かゆいし、においも気になるし、出かけるときに、人目が気になる、なんか肌も荒れてきた気がする・・このことを考えると、なんだか、憂鬱な気持ちになって、落ち込む・・。
それで、また、「お風呂に入るのめんどくさい。入りたくない」と、脳みそで叫ばれて、
「お風呂に入りたくないんだね(いいよ)」というのを、続けるなら、
これは「幸せのための選択ではなく、不幸(憂鬱、落ち込み、惨めさ)のための選択をしている」ということになる。
自分に対して、不幸(憂鬱、落ち込み、惨めさ)のための選択をすることを、いいよ、とするのは・・
これは、自分を愛することと、自分をいじめることの、どちらだろうか?
※こうやって、わざわざあえて「極端な二者択一」で書いているのは、エゴが誤魔化さないために、という意図からです。
それで、仮に、ここで、葛藤があるとしましょう。
たとえば、
・お風呂に入ってサッパリしたいとは思うけど、今日、もう、本当に身体が疲れてだるい、倦怠感疲労感が半端ないんだ(身体)
とか
・お風呂に入ることを考えると、髪を乾かすのも含めたら1時間はみておく必要がある。でも、今晩中に片付けておかなければならない仕事がたくさんあるんだ(時間)
とか。
このように「わたしはわたしの幸せために、こうしたいけど、〇〇について考えるとできないと思う」というようなときですよね。
それで、この〇〇には、「身体、時間、お金、人の目・・」などが入ることはよくあることです。
「外的な何かのせいで、わたしはこれができないんだ」みたいに、エゴは持っていきたがるもの。
「わたしは、わたしの心の幸せのために、わたしはお風呂に入りたいかな?」と聞いてみたところ、
仮に「入りたい」という感覚を感じた、としましょう。
それで、お風呂に入ってみるとしましょう。
このとき、思い出したいのは
「わたしは、わたしの心の幸せのための、選択をすることができた。わたしの心の幸せのための選択をする力がわたしにはあるんだ」
ということです。
歯を磨くとき。
顔を洗うとき。
お皿を洗うとき。
髪をとかすとき。
その一つひとつを、「わたしは、わたしの心の幸せのためにしたいこと」と、意識して、そして、選ぶというなら、
その度に、わたしのなかに、わたしを幸せにするための選択をする力があるんだ、と思い出す機会になります。
たったこれだけのことで?と思いますか?
そんなことよりも、なにか「特別な、スーパーパワーを得られそうな何か」をしたほうが、自分を愛することになる、と、本気で思いますか?
違うんです。この、日常の、些細な、小さな、積み重ね。
これを、練習すればするほど、心の力を、感じられるようになります。
心の力を感じられるようになってきたら、それを、保持していくための練習ができるようになります。
保持していくための練習をする中で「非常事態」なこともあるかもしれませんが、それでも、心の力を感じられることに、驚くことがあるでしょう。
この小さなところの積み重ねがあるから、大きな積み重ねで、迷わない。ぶれない。
小さな積み重ねの継続、練習を、大事にしていきたいと思いました。