こんにちは。
ringoです。
先日のブログで、「ringo名義での活動を完了するにあたって「これを機に」ということがいくつかあるので、それについて更新していきます」ということを書きました。
そのうちのひとつです。
この度、師弟関係をリセットさせていただきました。
このことは、わたしのほうから、弟子たち、一人ひとりに連絡をしました。
ですので、もし、今後、どこかで「ringoの弟子です」という表記を見かけたら、「過去の情報である」ということをご理解ください。
定期的に、連絡をくれる弟子もいましたし、ほとんど連絡を取り合うことのない弟子もいました。
それぞれの弟子に、「弟子になりたい」と言った時点で、「基本的に、わたしの方からアクションを起こすのではなく、弟子のほうからアクションを起こしてもらっている」ということを伝えていました。
定期的に積極的に連絡をくれる弟子とは、対話の時間をもつことで、その様子から、本気で、実践しているということが伝わり、わたし自身、感動やインスピレーションを受け取りました。
しかし、ほとんど、連絡がない(年に一回あるかないか)という弟子もいました。
そして、ほとんど、連絡を取り合っていないけれども、「ringoの弟子です」と、もし、どこかに明記しているとしたら、それは、わたしにとっては、違和感のあることでした。
「連絡をよこさないのは失礼だ」とかじゃなくて、ただ、違和感があったのです。
そして、このような書き方をすると「わたしが、その誰かを否定的にみている」というふうに、受け取られる方も、もしかしたら、いらっしゃるかもしれないのですが・・・
そうではありません。
それで、わたし自身、
このことに、どのような意味があったのだろう?
このことを通して、聖なる存在がわたしに伝えたいことはなんだろう?
と問いかけました。
そして、受け取ったことを、こちらに文章にしてみたいと思います。
心やスピリチュアルについて学ぶということ。
心の癒し、奇跡、ゆるし、目覚めを目的にするということ。
これは「真理への道」という言い方もできるでしょう。
このような目的のもとで、学んでいくということは、「わくわく、ときめくことばかり」ではありません。
※「わくわく、ときめくことばかり」ではありません、ということについては、前回のオンラインクラスでもちょうどシェアしたばかりのことでしたね。
「ある一定ラインを超えてくると、本当に楽しくなってくる」というものではあると思いますが、それは「イコール自我の思い通り」という意味ではありませんし、「大丈夫なふり、幸せなふり、前向きな思考ぐせが、上手になること」という意味でもありません。
実践以外の側面(知的理解の部分)も、大事です。
そして、この知的理解の部分については、ずっとブログで発信し続けてきました。
このことについて、この数ヶ月、正直、限界を感じ、発信方法を変えたいと思い、
無料オンラインクラスを開催したり、セッションをインスピレーション料金にしたり、「お申し込み条件」を外したり、してきました。
それで、知的理解も大事なのですが、もっと大事なのは、
実践と練習です。
そして、”リアル”です。
わたしの感覚でいうと、知的理解(0.1):実践練習(99.9)くらいのかんじです。
恐れが強いと「知的理解」も抵抗により理解ができなかったり、勘違いしたりするということがありますが、「わからないままやってみる」「自分なりに、でも、本気で、練習してみる」と、必ず、体験を受け取ります。
そして、この”体験”こそが、”学ぶ”ということであり”癒し”であり、
ここに、力や光が宿っており、ほかの人々(たとえば、周りの人々、関わる人々、読者、クライアント、世界の裏側にいる会ったこともない人等)にも、延長されていくものなのです。
このような意味においての”学び”や”心の癒し”は、
断言しますが、ひとりでは、不可能です。
この”学び”や”心の癒し”、
そして、そこに宿る、力や光、というものは、神からのものであり、
神は人を使って、人を助けるからです。
そして、反対に、自分が人から助けていただくとき、つまり、その方の中にある神の力をいただいているとき、同時に、与えていることになるのです。
「ひとりでは、不可能」と書きましたが、これは、「わたしに会いにこい、わたしの元で学びなさい」ということを示唆しているとかじゃないです笑
たとえば、あなたが今、実家で、両親と三人で暮らしているとして、会社に勤めているとしたとき、
両親だったり、会社の仲間たちだったり、まわりの人々、出会うすべての人々、関わるすべての人々が、「神の光を携えた人」であり、「わたしの助け主」です。
これも、ブログに書き続けてきた通りです。
それで、わたしたちにとっては、このことが、難しく感じられるものなので(なぜなら自我にはあり得ないことだからです)、
だから、セッションがあったり、グループレッスンがあったり、いろいろするわけです。
それで。
わたしは、師弟関係に限らず、お互いの、それぞれの、個々の感性、感覚を尊重したい。
一人ひとり、みんなが、内なる感覚、インスピレーションとつながることを、本当に、大事にしたい。
”この仕事(神様の仕事)”を活動する上で、わたしなりに、最大限に、神からの安心安全を差し出したい、だから、「それがどんな意味があるのか」とか「正しいか間違いか」とかじゃなくて、ただ、インスピレーションに従っていきたい。
一人ひとり、みんなが、内なる感覚、インスピレーションとつながることを、本当に、大事にしたい。
けれども、これを、嫌だ、という人がいても、そのままでいさせてあげたい。そのままを認めて尊重するということを、選びたい。
けれども、わたしは、わたしで、内なるガイドに従っていきたい。
この思いを、再確認することができました。
極端にいってしまえば・・・
集合意識的なエゴのイメージとして、「師弟関係」や「教える」という言葉には「上のものが下のものに、高いところから低いところに知識を伝授し、正しい決まりに沿うように従わせる」というイメージが、あるということは、否定できません。
それで、反対に、こういったことを、わたしは、否定するつもりはありませんし、それを超越した師弟関係もたくさん知っています。
どんなことでも、一長一短あるとおもいます。
どんなことでも、その人にとっての、神聖な、癒しのプロセスの一部であるかもしれないのです。
けれども、わたしは、「上のものが下のものに、高いところから低いところに知識を伝授し、正しい決まりに沿うように従わせる」という感覚がぜんぜんないのです。というか、正直、よく理解ができません。これはもう、長い間葛藤があったのですが、単に、感覚の話でしかないようです。
それよりも、一人ひとりが、内なる感覚・直感・インスピレーションとつながることだけを、大事にしていきたい。
一人ひとりが、内なる感覚・直感・インスピレーションとつながるからこそ、お互いのことを、本当の尊重することができると思っています。
そして、知識・知的理解・過去のデータに敬意を払った上で、体験・実践を重視していきたい。
一人ひとりの体験・実践は、必ず「その人にしか、出せない味」になると思います。
源はひとつで、みんな同じでも、この源がひとつであることを受け入れ切る、受け入れ続けるということは、この世界において、「その人にしか、出せない味」ということにつながると感じています。
そうした上で「あなたと、わたしは、表面上は別々。けれども、あなたとわたしは、たったひとつの光ですね。あなたとわたしは、同じでしたね」という、とても、美しい関係性につながると、思っています。
すべての弟子を、心から大切に思っています。
すべての弟子との関係、ご縁に、心から、感謝しております。
このことが、より、広々とした、限界のない、真の自由のサインとなりますように。