この投稿がringoブログ最後の投稿となります。
新しいHPの方でも、ブログは更新していきたいとおもっています。
内側を旅する中で、わたしは、ほんとうに、素晴らしい、驚くような体験をたくさん受け取ってきました。
その”方法”というのは、あまりにもシンプルで、簡単すぎるのかもしれません。
でも、こう書いていて、”神様らしいな”と思いました。
神様は、たとえ、わたしたちが問題や悩みや困難やなかなか叶わない願いで、苦しんでいたとしても、
それが、すぐに、簡単に、解決されるようにと、
わかりやすく、シンプルに、簡単に、その解決策を、与えてくれていた・・・
そんなことが、今、思い浮かびました。
けれども、同時に、
つらいとき、苦しんとき、落ち着くことができないとき、満たされていないと感じているときは、物事を難しく考えてしまうものかもしれません。
「難解な物事があって、それを、自分が解決することが楽しい」ことのように思えることだってあるかもしれないし、
「こんなにあっさり解決されてたまるもんか」「こんなにあっさり叶うはずがない。手に入るはずがない」というようなことを、
心の奥で信じ込んでいたということも、あるかもしれない。
だから、一つひとつ、ゆっくりと、自分のペースで、というのも、いいと思うのです。
「自分が歩きたい迷路」を、聖なる存在の癒しの光で照らしてほしい、と心から求めるとき、それは、必ず、そうしてもらえます。
「過去の取り返しのつかないあの出来事」を、聖なる存在の癒しの光で照らしてほしい、と心から求めるとき、それは、必ず、そうしてもらえます。
そうして、自分自身に、優しい光を受け入れていくとき、少しずつ「もしかしたら、本当に、ずっと神様が、助けてくれているのかもしれない」と思えてきます。
「もしかしたら、本当に、ずっと神様が、助けてくれているのかもしれない」「もしかしたら、神様の無条件の愛というのは、自分が思っていたよりもはるかに、優しく、幸せで、楽しいものなのかもしれない」と思えてきます。
わたしは、どちらかというと「もう、この苦しみはうんざり。なんでもします。自分が全面的に間違ってるというなら喜んで認めます。なんでも従います」みたいな感じだったので、こういうのも、すごく楽しい、と思っています。笑
どちらにしても「神の無条件の愛というのは、自分が思っていたよりもはるかに、優しく、幸せで、楽しいもの」ということを、教えつづけてくれます。
一度では、わからないからこそ、何度でも求め、求めるたびに、与えられ続けていることを、受け取れます。
わからないからこそ、求めることで、わたしでもわかるように具体的な体験を通して教えてもらえるし、
自分ができないからこそ、求めることで、完全なる存在にしていただけます。
神様は完全なる愛なので、愛しかご存知ないです。
なので、その光に戻してもらいたいと自分が思っているものを差し出す必要があるんです。