グループレッスン日記:「恋愛は、ひとりでするもの」

先日6月1日のグループレッスン内での”言葉”。

 

 

「恋愛は、ひとりでするもの」

 

 

これは、グループレッスン受講者の方が、インスピレーションを与えてくださり、結果的に「わたしが音声を発した」みたいな感じにはなったものの、

なんというか、わたし自身、電撃が走ったというか、「チャクラがととのいました」みたいになってました。笑

 

 

あのメンバー、あの空間(Zoomだけど)の、あのかんじ、という、すべてが、完璧だったというのもあると思いますが。

(ほんとうに、ありがとうございます。)

 

 

わたし自身、「恋愛」とか「孤独感」とか、そういうことについて、

霊的だったり、心理学的だったり、そういうところからお話させていただくことがありますが。。。

 

 

このように、セッションだったり、クラスだったり、みなさんとお話するなかで、

「わかってるようで、全然わかっていなかった」と、何度も何度も気付かされ、

このようにして、学びを深めていけることに、心から感謝しております。

 

 

「恋愛は、ひとりでするもの」

もう、まさに、そうです。

 

 

恋愛はひとりでするものなので、孤独やさみしさは、必然です、セットです。

ちなみに、ここでは、「恋愛関係」と「愛の関係」を、きっぱり、わけることにしています。

なんというか、「恋愛関係と愛の関係」を、「どっちでもいいじゃん、ぜんぶおなじじゃん、なんでもいいよ、ぜんぶOK」というのは、もう、エゴのわけわかめ作戦に他なりません。

恋愛関係は言い換えれば依存関係のことで、愛っぽいけれども愛じゃない関係(神の愛ではないという意味)のことをさしています。

ここでは、神の愛だけを愛と呼んでいて、その他は「その他」です。

 

 

「恐れベース」から「愛そのもの」というところへと、心を開いていくことで、

自分自身が、安心して、どんな人間関係のことも、パートナーのことも、歓迎できる、みたいなかんじ。

 

 

それで、「傲慢であるか怯えているかどっちかの人」から「自由な愛そのもの」という、本来の自分自身の感覚に戻りたい、というとき、

「価値判断、決めつけ、おそれの信念、べき、ねば、〜しなければならない、我慢、禁止、犠牲、期待、はず」

などなどを、手放していくことは欠かせません。

これはもう、癖みたいになってるので、自分が自分の幸せのために練習したいと思うかどうか。

 

 

自由な愛そのものは、

「価値判断、決めつけ、おそれの信念、べき、ねば、〜しなければならない、我慢、禁止、犠牲、期待、はず」

こういったもので、しばらなくても、自由な愛そのもの。

愛し愛されることしかしていない、自由な愛そのもの。

 

 

「価値判断、決めつけ、おそれの信念、べき、ねば、〜しなければならない、我慢、禁止、犠牲、期待、はず」

これが、あったらいけない、とかじゃなくて、ただ、手放すということなんだけど、でも、「いいえ、持っておきたいんです」という場合も、あるかもしれない。

 

 

そういうときは、その、思考パターンというか、思考ルートというかが、

いったい、どこに連れて行っていこうとしているのか?を、ゆっくりとよくみるようにする、

というのが、「ありのままをみる」ということだし「全肯定」ということ。

 

 

「いいえ、持っておきたいんです」という場合も、あるかもしれない、というのは、

たとえば・・。

「結婚しなければ、わたしは一生ひとりぼっちで孤独になるに決まってるんだ」

と思ってるとしましょう。

この「考え」が、一体、わたしを、どこに、連れて行っているのか?

この「考え」が、毎回、わたしを連れて行っていた場所は、どんなところだっただろうか?

この「考え」は、わたしに、何をもたらしてくれているのだろうか?

この「考え」は、わたしに、今まで、なにを、与えてくれただろうか?

そして、いったい、どのくらいの間、この考えを、大事に、持ちつづけてきただろうか?

わたしは、これからも、大事に持ちつづける価値が、ほんとうに、あると、思っているのだろうか?

この「考え」を持つことで、わたしはどんな感情になるだろう?

このように問いかけたりしながら、

「結婚しなければ、わたしは一生ひとりぼっちで孤独になるに決まってるんだ」

 

 

この「思考さん」が、なにをしているかを、よくみる。

ありのままをよくみる。

裁く必要はない。

ただ、よーく、みる。

「ただよくみるとかわからない」と思っていても、しばらく、わからないまま、そう思っていると、あるとき、ふと、何かを思い出したり、なにか感覚だったり考えだったり思いだったりが浮かんできたり、なにか、あるかもしれない。ないかもしれないけど、あるかもしれない。

 

 

なぜ、これが、全肯定なのか、というと、

どこも、無視していない、隠そうとしていない、誤魔化そうとしていない、

すべてを裁かず、ただ、光で照らしている、から。

 

 

それで、

この「考え」が、一体、わたしを、どこに、連れて行っているのか?

というのを、よくみてみるうちに、悲しくなったり、惨めになったり、ネガティブな感情が出てくる、ということもあるかも、しれない。

親のせいだったり、なにかのせいだったりにしたくなることもあるかもしれない。

そんなときは、「いいえ、持っておきたいんです」、と、自分が、持っていたいから、持っていただけだ、ということを、思い出す。

持っていたいから、持っている。それでいい。

エゴ以外、誰も責めてない。

 

 

上がってきた悲しみや惨めさは、癒やされたくてあがってきているのだから、

安心して、悲しませてあげる。安心して、惨めさを、そのままにしていてあげる。問題視とかしない。

 

 

親のせいだったり、なにかのせいだったりにしたくなるとき。

100歩ゆずって、その「考え」が、ずっと昔に、誰かから差し出されたものだったとしても、受け取ったのは自分。

手放すのではなく、持ちつづけることを、今までも今も選んでいるのは、自分。

選択権とその力が、自分にある、ということは、喜ばしい知らせである。

「結婚しなければ、わたしは一生ひとりぼっちで孤独になるに決まってるんだ」

これを手放す代わりに、「」の中に、光に入っていただくことだって、できる。

 

 

これを、よーく、みてみると、「執着を手放す」の本当の意味が、見えてくるかもしれない。

これは、時間をかける価値があるとおもう。

 

 

「執着を手放す」というのは「好きな人のことを忘れる」とか、「結婚を諦める」とか、「物欲をなくす」とか、そういう物理的な、行動面での制御をしようと、決意するような話じゃない。

もちろん、結果的に、誰かだったり、結婚だったり、何かだったりに、興味を失うとか、どっちでもよくなるということは、確率として、50%くらいはあるかもしれないけど、

でも、その、物理的なところを目指してるんじゃない。

 

 

これは、すごく、喜ばしい話ですよ。

  • URLをコピーしました!
目次