一番大事なものを後回しにしていると、どんどん、その大事なものと向き合うことから、逃げるようになります。
なんというか・・・「何週間も放置したお弁当箱が出てきた、開けるのがなんかこわい」みたいな感じです。
本当はそんなことない、何週間も放置したお弁当箱でもなんでもないんですけれども。
でも、この後回しを遡ると、自分の感覚、心の奥からのピュアな声を、遮って「とりあえずの取り繕い、とりあえずのその場しのぎ、とりあえず今日だけ・・・」ということだったりします。
「とりあえずの取り繕い、とりあえずのその場しのぎ、とりあえず今日だけ・・・」これはもう、まさに「誘惑」という言葉がぴったりだなぁ〜と自分を振り返ると思います(笑)
その「誘惑」が、何から遠ざけようかとしていると、「自分にとって、一番、大事なもの」「自分の感覚、心の奥からのピュアな声」だったり、します。これを、なんというか、とりあえず、押入れの奥に隠しとく感じ。
「とりあえずの取り繕い、とりあえずのその場しのぎ、とりあえず今日だけ・・・」「いつか〇〇になったら」「まぁいっか」「わたしは飽き性だから、わたしは落ち着きがないから、そういう人だから」・・・
そんな言葉を繰り返しながら、押入れの奥に隠し続けると、なんだか、だんだん、それが「何週間も前の、中身放置したままの、お弁当箱」じゃないですけど、ものすごい腐り方をしているんじゃないか、なんか悪臭がする気がする・・・という「妄想」が生まれます。
それで、また、とりあえずその場しのぎで、ファ○リーズしてみる。
けれども、悪臭が漂ってる気がしてならないので、空気清浄機も導入してみる。
悪霊がいる感じがしてきたので、お香もたいてみる。
とりあえず、一発でなんとかなりそうなものを、買ってみる。
・・・そうやって、どんどん、不安が膨らみ、攻撃されているような気持ちになり、一番大切なものは押入れの奥にしまっているので、大事なことは何一つ成し遂げられない感じがする・・・
という、このパターン、経験を繰り返すことになります。
同じパターンを実は繰り返すことで、「続けるのが苦手」という誤った信念に力を与えることになります。
けれども、押入れに隠しているのは、本当は、「自分にとって、一番、大事なもの」「自分の感覚、心の奥からのピュアな声」「愛」なのです。
ドロドロしたカビだらけのものが出てくるに違いないと思い込んでいるので、
確かに、自分の声に耳を澄ませるようになると、最初は、ドロドロしたもの、トゲトゲしたものがありますが、それは、さっきの「被害妄想」ゆえの何かが出てきているのであって、それは真実ではない。それは「わたし」ではないのです。
一番いいのは「こわい」とか「めんどくさい」というときに、自分の本当の感覚に耳を澄ませること、内側のエゴに自覚的・意識的であること。
エゴに、意識的であることで投影しなくなっていく、つまり、この世界の人や関係性や状況などに、ド派手な「泥沼劇場」みたいなものの制作をしなくなる、ということです。
けれども、もう、随分と、後回ししてきたし、継続するのが苦手だなぁ、というとき。
自分自身に尋ねてみて「同じパターンの繰り返しを終わらせたい?本当の自分自身、つまり、完璧な自由と創造性を授けられている自分に戻りたい?」と聞きます。
それで「終わらせたいし、戻りたい。それができるできないとかじゃなくて、わたしはそれを望む」と思うのであれば、重い腰をよっこらしょと上げるときなのかもしれません。
できるかできないかは、エゴのジャッジメントの声で、大事なのは「望むか?望まないか?」なのです。