こうじゃない見方で見てみたい

外側の誰かや何かを見て「大変そうだ」「かわいそうだ」と思って、そのまま放置、というときが、わたしにもありました。

それが投影だ、内側の反映だと言われても「わからなかった」ことが、わたしにも、ありました。

その外側が変わることはあり得ないし、どうやって変わるのかも「わからない」し、自分がわからないことはできないし、自分は無力だと、ただ無力感の中に引きずられていくことが、わたしにもありました。

今思うのは、ただ、大いなる存在に差し出せばよかっただけ、ということです。

自分で決めつけて、自分でやろうとして握りしめていたものを、すべて差し出すだけ。

外側に原因があるというのは、外側に力があると思うということで、自分には力がないと思うということ。これは無力感へとつながっています。

内側に、心の奥に、力がある、ということを認識したい。

 

 

「過去の出来事」や「あの人の様子」や「この事象、この事実」は、どう考えたって、変えられないものです。

外側は変えられないのです。

あの人どう見たって「苦労して、かわいそうな人」に見えたし、

あの人はどう見たって「間違ったことをした人、意地悪な人、悪影響を及ぼしている人」ように見えたし、

あの人出来事はどう見たって「そのせいで、わたしは今、こんなに苦しんでいる、こんなに困っている原因」のように見えたし、

外側は変えられないのだけれど、内側をどうすればいいのかも、わからない、というときが、わたしにもありました。

 

 

けれども、心を変える、内側の原因を変える、というのは、あまりにも簡単なことで、必要なのは、意欲だけです。

「どう考えたって、外側に原因があって、どうしようもない」というとき、

自分の見方、価値判断、固定観念を喜んで手放したい、他の見方で是非とも見てみたい、という意欲で、これは、祈りでもあります。

「このように思い込んでいた、決めつけていた」ということを、見つけ次第、どんどん手放すだけです。

すると「自分の苦しい狭いものの見方」というのを、自分が、自分こそが、大事に大事にしてきたことが腑に落ちるときがきます。

自分こそが、苦しい関係性を「これはそういうものだ」と、握りしめて離さなかったということが見えて、肩から力が抜けるようになるときがきます。

 

 

なにも悪いこと、裁かれるようなことなんてひとつもなくて、ただ、自分がそれに力を見ていただけ、ということが、わかるときがきます。

苦しい感情も、考えも、赤ちゃんのようなわがままも、叫び声も、蓋を開けて、浄化されることを、一つひとつ望んでいく。無条件の愛の中でゆるされていく。

空っぽになる、ということは、奇跡を受け取る、ということです。

愛される=愛する、ということを、毎日、真っ直ぐに受け取っていけるようになる、ということでもあります。

 

 

ジャッジが強いと、どうしても言動・形が気になります。

「わたしのことを本当に愛してくれてるなら、こうしてくれるはず」「相手から嫌われたくないから、こうする」とジャッジをしたり、駆け引きしたりというのは、

これがいいとか悪いとかじゃなくて、わたしの方が愛を受け取らないようにしている、というだけのこと。

心を開くというのは、ほんとうは、みんなから愛を向けられていることを、受け取る、ということ。

みんなから愛される、愛を受け取るということは、愛を差し出すということ。

ただ、そうされていること、その広がりを、自分が邪魔しない、ということ。

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