ひさしぶりに、恋愛結婚系の記事かもしれません。
「恋愛はエンタメ」「結婚は契約」という捉え方があることを聞いて、たしかにそうかも、と思いました。
恋愛は恋で、結婚が愛、というわけではありません。
結婚は、例えば「誓う、約束する」ということはあったとしても、それが「絶対の愛の証」である、とは限りません。
というか、そもそも、愛はこの世では歪むものですが、恋のまま結婚してもそれはうまくいくはずがありません。
そして、受け取る通りに与えています、というのを深めていくのが、鏡の実践でもあります。
おや?与える通りに受け取るのでは?と思った方。
そうとも言えるし、そう紹介されている理論も多いともいますし、わたしもそういうの好きですが。
これは、たとえばですが、よーく、ひろーく、ふかーく考えてみると、
「実のところ、自分が与えているのがなんなのか、実はわかっていなかった」ということが、わかることがあります。
自分にとって、それが最高の豊かさだと思い込んでいたとしても、相手にとってはそうではない可能性も、あるかもしれない。
自分にとって、それが最善の行いだと信じていたとしても、誰かにとってはそうではないこと・とき・場合が、あるかもしれない。
この世界では、どうしても、「ときと場合」があるし、さまざまな文化がある。いろんな人がいます。
反抗期の子どもがいたとして、思う存分反抗して成人したら、親孝行になった、という話は、めずらしい話ではありません。そうではない、ということもあるかもしれませんが、そうではないことに意味を見出すのをやめることが、平和が訪れたとき、平和を受け入れたときかもしれない。
なぜ、こんなことを思ったか、思ったかというか、このようなことを考え詰めていたか(笑)というと。
わたしは長い間「母がわたしのことを思いやりがない人といったという、「わたし=思いやりがないという信念」や「被害者意識」に取り憑かれていました。
そして、母は、わたしに、何度も「自分がしてほしいことを、相手にしてあげなさい」と、言いました。
「自分がしてほしいことを、相手にしてあげなさい」
これを、わたしに、「ちょっとした張り詰めた空気とともに告げた」のは、母だけではありません。
「自分がしてほしいことを、相手にしてあげなさい」
わたしは「是非とも、そうしたい」と思うとともに、それがうまくできていないような、なんとも言えないぎこちなさを、いつも感じていました。
そうやって、ずっと過ごしてきたのですが、あるときから、
「自分がしてほしいことを、相手にして、喜んでくれる人と、喜んでくれない人が、いるかもしれない」
という仮説に辿り着きます。なんというか、文化の違いというか。そんなことを、感じたときが、あったのです。
そして、
「わたし自身も、相手が差し出してくれるものを、そのありのままを受け取れていないのかもしれない」
とも思いました。
「自分の文化が絶対である」とか「自分の文化だけが好き、それ以外は、排他」(これは一例)となっていると、あるとき”壁”が現れます。
たとえばですが、非常によくあるご相談なのですが「〇〇だけがうまくいかない」とか「八方塞がり」とか「無理難題が現れる」とか。
恋愛でも結婚でも、価値観が一致して・意気投合して結婚したはずなのに、価値観の不一致・合わないなどが理由で別れる、とか。
これって「受け取り窓口」みたいなものが、狭くなってるので広げましょう、という話じゃなくて、
もっと、素敵な、もっともっと、素敵な、意味がある。
あなたは、もともと、器が大きいわよね、小さいって勘違いしてませんか?ってことかもしれない。
あなたは、そもそも、窓口広いわよね、狭いエゴ(古いパターン)を信じ込んでませんか?ってことかもしれない。
そして、その「古くなったパターン」というのが、ランドセルだとしたとき、そのランドセルを手放して、インテグリティをどうぞ、って感じです。
たしかに、「自分がしてほしいことを、相手にしてあげる」って、大事でもあります。
これが自然とできる人をみると、わたしは、ほんとうに、すごいと思うし、「自分がしてほしいことを、相手にしてあげて、自分がほしいエネルギーを意識的に与え続けている」と、引き寄せの法則ということで、そんな感じになってくると思います。
なので、基本的にはそれでOKなのですが、「壁」が現れている場合には、上に書いたようなことも考えられます。
これは、結構、いい人・育ちがいい人・しつけが厳しかった人などに多い傾向にあるかもです。
ちなみに、恋愛・結婚とかで応用すると(自分が”恋愛対象が男性の女性”ということで例を挙げると)「自分が男性だったら、パートナーである女性にどうしてほしいかな?あるいはしてほしくないかな?どのようにあってほしいかな?」というのを書き出してみて、それに自分を一致させてみるのもいいかもしれません。引き寄せの法則ということで、そんな感じになってくると思います。
受け取ると与える。与えると受け取る。
どちらも、同じように、大事です。
そして、受け取る通りに、与えている、というだけ、で、わたしは、それをもっと深めたい、ほんとうにほんとうにわかりたい、と、もう何年も鏡の実践を続けているというだけ、です。