こんなことしたって無駄、とか、
無駄を省こう、とか、
無駄遣いしちゃダメだ、とか、
あ〜、今日1日、何もしなかった、1日を無駄にしてしまった、とか、
そう思うことってあるかもしれなくて、
「これは無駄、これは無駄じゃない」というのは、まず、ジャッジメント(エゴの判断、裁き)である、ということ。
このエゴの判断を信じている限り、
エゴがいう「正しい」には近づけるかもしれないけれども、そうなると「楽しい」とか「幸せ」とか「心から溢れ出る喜び」とか、そういったものから遠ざかってしまうことがある。
ジャッジメントと愛というのは、真逆だからで、本当は、同時に存在することができないものだからです。
自分が「こんなことしたって無駄だ」とか「時間の無駄、お金の無駄、労力の無駄」とか「なんの意味もない」と遮断して裁いてしまっているところほど、愛の奇跡が隠れているって、よくあることなのです。
「損して得とれ」とか「負けるが勝ちよ」とか、そういう逆説的な表現があって、これも、エゴにとってみたら大変不評な言葉だったりします。
損得勘定していたいエゴ、闘い続けていたいエゴにとっては、「損して得とれ」も「負けるが勝ちよ」も、できれば、受け入れてほしくない言葉なのです。
エゴは、損得勘定で額に汗流しながらそろばん弾き続けていたいし、勝つか負けるかという闘いを続けていたいからです。
「損して得とれ」とか「負けるが勝ちよ」というのは「損したら得をする」とか「負けたら勝つ」ということではなくて、損得勘定も勝負も終わる、奇跡が待ってる・・みたいな感じです。
日常のちょっとしたところで「逆説な直感」みたいなものを聞き取れるようになってくると、損得とか勝負とか、そういう狭い土俵の上でおしくらまんじゅうするようなフィールドから降りることになる。
ここで、損得勘定を続けていてもいいし、闘い続けていてもいい。「いい」というのは、そうしていたとしても、自分を裁く必要はない、ということ。
そして、同じように、損得勘定をやめてもいいし、闘うのをやめてもいい。
重要なのは、できるかできないかではなくて、「自分の心はどちらを望んでいるのか?」ということです。
だから「損得勘定を続けたい、闘い続けたい、自分はこちらを望む」と、思うのであれば、損をしても、損得で感情やお財布の中がアップダウンしても、勝つか負けるかという緊張でいつもカツカツしていたとしても、それは、自分がそうしたくてそうしているのだから、それでいい、という感じです。
反対に損得勘定や、勝負をもうやめたい・・と思ったら、そういう分離がない体験がはじまっていく。これは、ある意味、「未知」な感じがするかもしれなくて、こわい感じがすることもあるんだけど、このこわさ・・というのが愛や奇跡を受け取ろうとしているサインだったりします。
恐れ、みたいなものがあるなら、よく見ることが大事。
無駄、というのも、本当に無駄なのかどうか?
エゴは「無駄だ」といってるけど、もしかしたら、心は「こうしていたい」というかもしれない。そして、心が「こうしたい」という声に従っていると、
自分が「無駄だ」と言っていたことをあれこれし続けてきた間、あるいは、「何かを無駄にし続けた」という間、ずっと、神様がそばにいたことを思い出したりするものです。
例えば、あの「ウェディングドレス」とか「結婚式」とかも、
「二人だけなのに、ホールのクリスマスケーキ」も、
クリスマスツリーにたくさんのキラキラの飾り付けも、
無駄っちゃ無駄です。でも無駄じゃないんです。
どっちでもいいかもしれないけど、どっちでもよくないのです。
無駄だけど無駄じゃないものを、どんどんゆるしていく。
正しいとか、常識的かどうかとか、平均点かどうかとかより、心がのびのびしていたい。