エゴをなぜ見るのか?
それは、カバンの中身を全部出す作業に似ているかもしれません。
厳密に言えば、中身を出すのは、自分ではなく、自分の内側に存在する神聖な存在です。
「自分の中には神聖な存在がいるらしい」という、最初は、そうらしい、という感じで大丈夫なのです。
その存在と、今からこの心を一緒に見てください、と内観します。
そして、内側のジャッジメントやコントロール、おそれや疑いや罪悪感などに気づいたら、手放したいと、神聖な存在にお願いします。浄化されることを望みますとお願いします(祈り)
これを続けていくだけでも、内なる神との信頼関係が育まれていきますし、奇跡もたくさん受け取ると思います。
大事なのは、内なる神に、正直に素直に包み隠さず全てを捧げること、です。
神聖な存在は、無条件の愛の存在なので、こちらから頼まない限り、そっと見守っててくれるのみ、です。
「手放したい」とこちらからお願いしない限り、無理やりもぎ取る、というようなこともしません。
エゴはそもそも無です。けれども、わたしたちは、その無によって、苦しめられているので、捧げます。
横からあれこれ口喧しくアドバイスしたりするようなことはしません。
「試練」のような、恐ろしい事態を引き起こして、反省させるように促す、ということも、するはずがありません。
わたしはわたしを愛します。どんな自分も全力で愛します。と決めます。
神は、これ以上ないほどに、愛してくださっています。それを、今、受け入れます。
このシンプルで、重要なことを、毎日思い出します。
浄化のとき、自分でなんとかしようとせずに、聖なる存在を呼んで、全て捧げます。
自分でなんとかしようとする、というのは、自分であれこれ考えて自分を納得させようとしたり、外側に正解や解決策を探し求めたり、問題に対処しようと自分の力で頑張ること、などです。
そうではなくて、神に差し出します。
神に差し出せば、宇宙の法則を受け入れれば、どの問題も等しく、完璧に、解決されます、奇跡の道具として使ってくださいます。
このときにすごく重要なのが、自分で解決ルートを指定しない・思い込まないこと、です。
例えば、前髪を切り過ぎた、という問題があったとしましょう。
この解決ルートとして、自分(エゴ)は「神に捧げれば、前髪が早く伸びてくれるのではないか」と期待します。
けれども、この期待に耳を貸さずに、神に捧げ続けると、神は、この、あり得ない前髪を道具に使って、
「あの人から話しかけられて、親しくなることができた。そのあとで、わたしは、まわりから見ると近寄りがたい雰囲気に見えていたようだと知った。自分は嫌われていると思い込んでいたけれども、そうではなかったようだ」
というようなことへと導いてくれることがあるのです。
例えばですよ。
クライアントさんのお話を書くわけにはいかないし、許可をいただいたところでやはりどうしてもわたしが個人情報の取り扱いが気になってしまうので、書けませんので、
例えばを思いつきで書きましたが。
自分の力でなんとかしようとせずに、つまり、自分の力でなんとかしようとしていることに気づいて、神に捧げることが大切です。
奇跡の経験を重ねていくことで、自己否定も自己批判もなくなるし、この世界や誰かのことを疑ったり怖がったりするようなことも、なくなっていきます。
だから、奇跡の体験が、必要です。