「自分は自分に対して、愛情深いだろうか?」
これを、一日の中で何度かランダムに、問うてみる。
適当でOK、自分なりのペースでOKなので、しばらく続けてみる。
ほんとうに大事なのは「心の奥の選択」で、「なにをしたか?」とか「なにをいったか?」とかではありません。
「なにをしたか?」とか「なにをいったか?」とか「どんな状況か?」だけにフォーカスしていたら、(自分や他者への)ジャッジやコントロールがやめられなくなります。
ほんとうに大事なのは「心の奥の選択がどうなってたか?」「その心は?」の部分。
心の奥の選択肢は「愛か?」「愛以外か?」です。
※愛=奇跡、幸せ、自由、平和、神様などなど。唯一のもの。
※愛以外=エゴ、恐れ、などなど
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焦点を合わせたいのは「心の奥の選択」で、「なにをしたか?」とか「なにをいったか?」とかではなくて、「心の奥の選択がどうなってたか?」「その心は?」の部分。
※ここの焦点が、ブレブレでごちゃまぜだと、混沌としてきます・・・。
これを、一日の中で何度かランダムに、問うてみる。
適当でOK、自分なりのペースでOKなので、しばらく続けてみる。
心の奥の話として、
「自分は自分に対して、愛情深いだろうか?」
「ほんとうに、愛情深いだろうか?」
「愛情深くありたい」
「あともう少しだけでも、自分に優しくありたい」
このような感じで、自分の心と、対話してみます。
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「あともう少しだけでも、自分に優しくありたい」
「自分を愛したい」
↑これが、心の奥から思えるまでのプロセス、と言う感じです。
丁寧に丁寧に、まっすぐに、正直に、優しく、自分が自分の心を見ていく、見ていきたいという気持ちを持ち続けることが、自愛。
自分いじめが無限に出てきます、みたいな場合は、「ゆっくりでいい」くらいの気持ちが、ちょうどいいかもです。
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「他者に対して、ほんとうに愛情深いだろうか?」でもいいかもしれません。そして、これも「心の奥」の話です。
他者=自分。
他者をどう見てるか?は自分が自分をどう見てるか?に過ぎません。
「ほんとうは心の奥では批判してたけど、愛想よく振る舞っておきました」
「ネットニュースのコメント欄を見て、そのコメントに頭の中でジャッジしてた」
※こういうのが「鏡の実践」「内観(書き出し)」などの対象。「立ち止まる」だけでも◎
これはよくあることですが、そのような場合は、「自分にやさしく(どんな自分もそのままでOKで話を聞いていく)」を大前提に、
「自分の正直な本音を丁寧に聞いていく(どちらかというとネガティブな気持ち・闇の部分を見ていくことになると思います)」ことが大事です。
そんな自分を責めるとか反省するとか正そうとするとか、そういったことは、一切不要です(多分、もう、最低でも、5億回以上書いてます)
しかし、こういった、心の動きを、ノージャッジで(正当化もしない)、見る・知る・自分の話を自分が聞く、ということが、自分と向き合うとか、内観、自愛です。
なので、外にイライラしやすいときや、厳しい人や状況に囲まれている場合は、
シンプルに「自分が自分に優しくすればOK」ということです。
「以前、内側も外側もとてもよくなったのに、また、こんな大変なことになった」という場合も、シンプルにこれです、もう、これに腰据えるといいです。
「自分はなにか、例外的に、不幸になるように仕組まれているのではないだろうか?」などは、もう、どう考えても、エゴのお誘いです。こういったことを考えても、「幸せの先延ばし」「時間稼ぎ」というだけで、そんなわたしさえも「神様は愛してくださってる」って感じなのです。