ネガティブ、抵抗、など

基本のおさらい。こんがらがったようなときほど、シンプルに、という記事です。

 

 

 

「誰かから無視されている」は「自分が自分を無視している」です。

「誰かがわたしを蔑ろにする」は「わたしがわたしを蔑ろにしている」です。

「誰かから理不尽な扱いを受けるとき」は「わたしがわたしを理不尽に扱ってるとき、自分の中に矛盾や筋の通らなさがあるとき」です。

「怒っている人がいるとき」は「自分の中に怒り(激怒かもしれない)があるとき」です。

「???」となる場合。

「それに気づきたい、それを知りたい、教えてほしい、教えてください」というような感じで思う。

これは祈り、でもあり、必ず、答えを受け取ります。

外側のなにかや誰かではなくて、内側に問う、みたいな感じです。

内側での深い気づきや癒しがある場合、外側は必ず変わりますので、それも受け取ります。

※祈りというワードを使いましたが、祈りというワードを使う前から、これをお伝えしておりましたので、クライアントさんや読者さんで「素敵な出来事や体験やまわりが優しくなった等を受け取ったことがある方」は、祈っていた、ということになります。

 

 

 

たとえば、「自分が自分を無視している」にしても、「なにをどのように」などは、人によって違いますので具体例は書けません。

が、

  • 素直な本音を自分で認めること
  • ネガティブな感情も感じること

これは、とても大事でもあるし、ひとりではなかなか、ということもあるかもしれません。念の為、書きますが「これを正当化して人にぶつけていいです」という話ではないです。

しかし「正当化してしまっていたことに、後から気づく」とか「また、ぶつけてしまった」というようなこともあるかもしれません。

なんというか「ポジティブ系のメソッド」も世の中にはありますが、ネガティブが出てくるなら、ネガティブを感じるというか、それを抑圧しないって大事です。

我慢、抑圧する、「こんなことは誰にだってあることだ、もう大人なんだから」と言い聞かせる、ということが、自分が自分を無視・みてみぬふり、ということがあります。

もちろん深掘りした上で、「何度も再生されるテープ」のようになり、それに自覚がある、というようなときは、「これをもう選びたくありません」と、強く願う、願い続ける、祈り続けることは、素晴らしい機会です。

 

 

 

ネガティブな感情を感じる、ということは、なんというか、泣きたいときはただ泣く、とか、

こわいとき、そのこわさを、ひとりで感じてみる、みたいな感じです。

なんとかしようとする必要はありません。

 

 

 

抵抗も、そうです。

「なかなか本願だけ叶わない依存症」「いつまでも頑張りが足りない依存症」「まだまだわたしには問題があるから改善解決しなければならない依存症」も、そうです。

なんとかしようとする必要はありません。

 

 

 

なんとかする必要は、ありません。

なんとかしようとするから「なかなか拭えない、消えない、時間がかかる」となります。

 

 

 

とはいえ。

怒り、罪悪感、おそれ、絶望、深い深い悲しみなど、どうしても、これをひとりで、というのは、いくらなんでもきつい、というのは、わたしにも経験があります。

だから、内なる存在、心の奥にある光、を、思い出し続けてください。

その存在は、必ずいい結果が訪れることを、知っています。

そして、それが確かである、ということだけを確信しています。

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