正当化
開き直り
平気なふり・平気じゃないふり
自分の中の、これに、いつだって、警戒していたいと思う。
そして、謙虚でありたいと、最近、強く思う。
「あなたはわたし」という見方を練習し続けて、
自覚的なマインドウォッチング、内観も続けて、
マインドの浄化を積極的に望むようになって。
・・すると、誰だって、なんというか、「今まで見えなかったものが見える、今まで感覚しなかったものを感覚する(A)」みたいな感じになるらしい。
世にいう「サイキック能力、リーディング能力などが開花する(B)」的なことも、めずらしくない、よくあることらしい。
私は、これを、何人もの人から聞いて、やっと、安心しました。
※でも、「(ここで書いてる)今まで見えなかったものが見える、今まで感覚しなかったものを感覚する」と「サイキック」というのは、全く別ものです。
なぜ、私が今まで、サイキック能力だったり、「声」だったりに対して、後ろめたさというか、「こそこそ感」というか、「できれば隠しておきたい」と思っていたかについて、最近、少しずつ、解放というか、ゆるされた感というか、そんな感じを受け取っています。
この「超感覚(A)※私が今命名した」だったり、「サイキック能力(B)」だったりを、隠そうとする、認めたがらない、疑う、逃げる、というのも、ただのいつものエゴの戦略でしかなかった。
けど、いろんな、集合的な、決めつけ、勘違い、エゴの信念・・そういうのが、絡み合うようにして、出てきたように思います。
私の感覚としては、サイキック能力も運動神経も同じようなものだと思っているのですが、
私は、サイキック能力について、罪悪感、後ろめたさみたいな感覚が、半端なかったのですよ。隠したくて、隠したくて、仕方がなかった。
それで「私、そんなの、わかりません」と、ずーっと、自分を偽ってきた。
実際、そうやって、人に言ってた。
だから「私、嘘ついてる感」が常につきまとっていた。
この頃は、体調がいつも悪かった。
それで、最近、こういうことの解放を受け取っていく中で、
友人だったり、家族だったりに「こういう自分のことについて話してみよう!」という感じになって、話していた。
「わざわざ、こんなことを話すのも、変な感じだ」と思いながら。
だって、なんか、自分からわざわざ「ジャーン、私、実は、サイキック能力がありました(ででーん)」みたいにいうのは、かっこわるすぎる。自分で自分にシラけます、という感じです。
しかし、感覚が、「話す」というので、話してみた。
すると、みんな「そういう感じだよね(驚かない)」「なにを今更」「わかってたよ」「?」みたいな反応ばかりだった。笑
これは、例えるなら、なんというか、私は女性なのですが、家族や友人に、あるとき「実は、私、女性なんです・・!」と勇気を振り絞って言ってみた、ぐらいの感じだったと思う。笑
でも、確かに、私には、この体験が必要だった。
みんな、受け入れてくれていたんだ。私だけが、自分の特徴的なところを、受け入れず、拒絶して、隠していたかったんだ。
そして、それは、自分が自分の感覚や、個性のようなところ(サイキック能力)を、拒絶しないと、本気でひとりぼっちになってしまう。
本気で孤独になってしまう。
けれども、私は、みんなと同じがいい(=神の一体性、全一性を望む)と、ずっと、恐れてきたし、願ってきたのかもしれない。
結局、やはり、自分を苦しめることができるのは、自分だけなんだな、と思って、安心した。なぜなら、自分が心を苦しめていたなら、自分で心を解放することができるから。
たぶん、私の被害妄想が、酷すぎたのかもしれないと思った。笑
そうやって、深く、ゆるしゆるされていくなかで、解けていくなかで、
受け取るものも大きくなっていくのですが、
本当に、ここで、こういうときほど、
正当化
開き直り
平気なふり・平気じゃないふり
自分の中の、これに、いつだって、警戒していたいと思う。
そして、謙虚でありたいと、最近、強く思う。
「はい、これで終わり」とか、ないので、より、繊細に、正直に、素直に、マインドウォッチングを続けていきたいと思うし、
積極的に浄化して、たくさん奇跡を受け取りたいと思う。
まだまだ、私には、たくさんの奇跡が必要なので、たくさんの奇跡を、今日も求めて、出会うすべての人々、世界中すべての人々と体験したいです。