逃げるのも、怒るのも、悪ではない

逃げちゃだめだ、とか。

人のこと嫌いだと思っちゃだめだ、とか。

怒っちゃだめだ、とか。

そういうことではないんですよね。

 

 

逃げちゃダメだとか、嫌っちゃダメだとか、怒ったらダメだとか、そういうことって

「自分でなんとかしようとしている、自分でエゴを制御しようとしている」ということで、

本来の自分自身と一致する(愛と一致する)というのは、そういうことではないです。

 

 

むしろ、この、「ダメだ」とか「ベキだ」とか、

そういう厳しいジャッジメントやコントロールの声に従うことをやめて、

愛を受け入れていくこと、自分自身の光を思い出していくこと、という感じです。

 

 

例えば、嫌な人、嫌なこと、嫌いじゃないけどどうしても関係がうまくいかないことがあって、

ただただ、そこから、離れたい、逃げたい、と思う、

ということもあるかもしれません。

 

 

こんなときに、人を嫌うと思う自分はだめだとか、逃げたらだめだ、といって、自分を追い詰めて苦しくなるというなら、それは、間違った方向に向かっている、ということになります。

(間違った方向というのは苦しみがあり、正しい方向というのは喜びだけがあります)

こういうときに「今は、一旦、離れよう、逃げよう」と思うのは、アリだと思うのです。

同時に、ここで大事なのが、

正当化しない、正当化したままにしない、

否定的な見方をそのままにしない、被害者のままでいない、相手を悪者にしたままにしない、

(つまり、蓋をしたままにしない)

ということです。

本当の自分を思い出す機会として受け取ること、それだけが大事、それを忘れなければOK。

逃げたあとに、自責・罪悪感を感じていない方が大事だし、もし、うっすらとでも自責や罪悪感を感じているなら、このことに正直になることが大事です。

 

 

怒りが出てくる、というときも同じです。

どうしても、怒りが出てきてしまって、もうどうにもならないようなとき、というのもあると思います。

こういうとき、信頼できるお友達に愚痴を聞いてもらう、というのは、アリだと思います。笑

紙に書き出してビリビリに破る、というのがいいですが、

それでも、やっぱり、悪口大会を開催したくなるとき、エネルギーを発散したくなる感じのとき、というのも、あるものです。

その自分を否定しないこと、押さえつけないことが、大事です。

怒りを、悪者扱いしないことです。

これも、正当化するとか、開き直るとか、相手を悪者のままにするとか、そういうことにしたままにしない、と予め自分で決めておいて、

気づきと解放の機会として受け取る、本当の自分を思い出す機会として受け取る、と自分が決めるのが大事です。

そして、これも、怒ったあとに、自責・罪悪感を感じなくなっていく方が、大事なのです。

しかし、もし、うっすらとでも自責や罪悪感を感じているなら、このことに正直になることが大事です。

 

 

全部、心の中、精神面での話で、言動、行動をどうにかする話じゃないのです。

本当の自分と本当の意味で一致して、心が決まれば、言葉、行動は、自然と出てきます。

(・・・自然と、と書きましたが、勇気がいる、ちょっとこわく感じる、という場合もあると思いますが、そういうときほど、受け取るものも大きかったりするものです)

 

 

正当化しない、正当化したままにしない、

否定的な見方をそのままにしない、被害者のままでいない、相手を悪者にしたままにしない、

と、書きましたが、なぜかというと、この状態↑だと、同じこと繰り返すと思います。

「同じこと繰り返す」というのは「相手や状況を変えて、同じようなことを引き寄せる」とか「立場を変えて、経験する」とか、

「一番大事な人、大事な場面(例:パートナー、子供、仕事等)で、極端な形で経験する」とか、

そういうことです。

これは、脅してるとかじゃなくて、「自分が見たいように見ているだけ(投影)」なので、自分の見方が変わらなければ「また同じようなドラマを作成して、相手に演じさせて、鑑賞する」みたいな感じです。

(それで、鏡で見るというのは、このドラマを作成した自分をゆるす、ということをやっていくわけです)

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