前回からの続き、
「身の丈」について思い浮かぶことの2個目、です。
二つ目は。
「その望み、願い、夢、理想、本当に自分の望みなのかどうか?」というところです。
これは例えば、
「(タワーマンションが流行ってたから)タワーマンションに住みたいと思っていたけど、しばらくすると、どっちかというと、わたしは本当は海のそばの一軒家に住みたいと思ってたことに気づいた」
みたいな感じでしょうか。(この例えは、逆でもいいのですが・・・)
「恋愛成就系で叶えたい」でいうと、
「(本当は相手に対して怒りを感じていて、復讐したい気持ちさえあるのだけど、それを直視することがこわくて)ただただ両思いになりたいと思っている」
とかでしょうか。この場合は、怒りや復讐したい気持ちに気づく、ノージャッジでただ認める、感情を解放していくことで、鮮やかに広がっていくケースをセッションにて多数目撃しております。あと、念の為書くと、「この場合の本当の願いが復讐したい」と言いたいわけではありません(笑)
他にも、
・親の期待に応えようとしている、とか
・親の期待に応えまいと反抗している、とか
・「社会のいう安全」に沿おうとしている、とか
「自分ではない誰かを軸にして、夢や願いを立てる」ということが、ないかどうか?です。
「自分の心の奥からの、魂からの、声」を無視して、誰に反応した上での状態だと、苦しみを抱くことになります。
もちろん、「Aさんの提案と、自分の提案が一致している」というような場合もあると思いますが、その場合だと「悩む、迷子になる、苦しむ、執着する願い」とはならないものです。
「身の丈」からは、ますます離れた話になりそうなのですが、思い浮かぶままに書きます。
ここからは完全にわたしの主観というか、体験談というか、そういう話になりますが、
このブログの読者さんそうがそういう感じなのか、意外とセッションで多いのは、
「ヴィジョンへの疑い」
というテーマなのです。
わたしの中では(わたし用語では)「ヴィジョン」というのは、もう、みえたらそうなるもの、逆に叶わないとおかしいものくらいの感じのもの、みたいな感じです。
この「ヴィジョン」というのもまた、おくが深いですし、
「みえる」というのは、言い回しの一つだと思っていただきたいのですが・・・
それはさておき、セッションを振り返ると、意外とこの「ヴィジョンへの疑い」「内なる神への疑い」というのは、意外と多い印象です。
一回確かに受け取るんだけど、後からヴィジョンを否定する、疑う、退ける、みたいな。
そして、その場合の多くは、ヴィジョンをヴィジョンと認識していません。
逆のパターンで「自分で作ったイメージをヴィジョンだと思ってるパターン」もありますが(でもヴィジョンという確信があるなら悩んだりしないと思う)、両者に共通して大事なことは、
・自分の気持ちに正直に素直になること
・自分の素直な正直な気持ちをジャッジ・分析・問題視しないこと
・浄化
です。
やはり、浄化、です。