なぜわたしは神と神様と区別したいのか?

これもまた個人的な、今、わたしが、ふと思うこと、思い出したことについてのお話です。

わたしの中で「神と神様(そして神々)」という「区別」があります。

 

 

究極的には「なんでもいい、どちらでもいい」のですが、

「人間目線(自分を人間だと思ってる目線)」からすると、この区別の必要性というか、わたしの中では、全くちがう感じがあります。

 

 

それで、なぜ、わたしは神と神様を区別したいのか?についてなのですが、

まず、わたしの中での神は、この世界のことを知らないことになっているし、この世界は創ってない、という感覚なのです。

なぜならば、わたしの中での神は、徹底して、一貫して、完全なる無条件の愛、そして、わたしを、わたしたちを、これ以上に愛してくれているなにか、みたいな感じがするのです。

わたしは、どうしても、その完全なる愛そのものである神が、戦争を作ったとは思えませんし、天災を作ったとも思えませんでした。

ましてや「神がお怒りになったせいでこの天災が、この疫病が」というのは、わたしにとっては、あり得ない発想でもあり、正直、昔それを耳にしたときにはショックを受けたほどでした。

「無条件の愛だからこそ、争いさえもでもOKなのではないか?」という「声」が聞こえてきそうなのですが、確かに、「争い」を裁きはしないでしょうが、創造することはしないはずだと思うのです。完璧な愛、無条件の愛であるのであれば。

それじゃあ、親子戦争を度々起こしていた「わたし」はなんなのでしょうか。

親子戦争を起こしていた「わたし」は、正直に反省するならば、罪悪感や恐れを持っていて、この罪悪感というものを、神は神の子に与えたでしょうか?

神は無条件の愛です。神の子を罪だと、裁いたり、罰をちらつかせたり、するでしょうか?

わたしの中での答えは、即答で「そんなことは絶対にあり得ない」でした。

ということは、つまり、完璧な愛である神は、罪を知らない、裁くことも、咎めることもしていないので「許してあげよう」ということすら知らない、ということになります。

「神の子ではなく、悪魔の子(?)なのでしょうか?肉の子なのでしょうか?」というと、それもまた、違う気がするのです、そんな気になったこともあるけれども、違う気もするのです。と、思ったのです。

だって、度々、わたしは、神に助けを求めていたから、です。

この世界に生まれてきて「神様」という言葉を知って、ほとんど宗教などに興味関心がないような両親のもとで育ちましたが、なぜか神様はいると確信をしたのです。

神様だったら、すべてを助けてくれるだろう。と思ったのです。

 

 

ちなみに、わたしの中での神様は、この世界のことをまったく知らない神とは違って、この世界のことも知っている、そして、神のことも知っている「天と地を完全に制御できる無条件の愛の存在」です。

なので、神とわたし、神とわたしたち、神とこの世界の架け橋のようなかんじでしょうか。

呼び名は、神様のほかにも、守護霊様、ご先祖様、天使様、ハイヤーセルフ(高次の自己)、内なるガイド、神聖な存在、内なる神、様々にあると思っています。

わたしが、罪悪感で苦しんでいたときも、恐れで怯えていたときも、自責や他責の「声」で頭が痛くなっていたときも、絶体絶命のように思えていたときも、抵抗で動けなくなっていたときも、葛藤の中にいたときも、

わたしが一瞬でも「助けて」と助けを求めたとき、その頑丈な牢獄の中(自分で作り上げた牢獄ですが)、その頑固な牢屋の中に、サッと光を差し込ませ、様々なこの世界のことを手配したかのようにして奇跡を起こしてみせて、神を思い出させようとしてくれているのが神様、という感じです。

 

 

神々は、なんというか「エゴフィルターを通して見たときに、神の代わりだと心の奥底で思い込んだもの」みたいな感じです。

 

 

それで、なんで、わざわざ、この「区別」をしたいのか?についてなのですが、

罪悪感を感じているとき。

恥、惨めさ、自分への憎悪・悍ましさ、強烈な劣等感や自己嫌悪などでも同じような感じだと思うのですが、

罪悪感を感じているとき。感じているというか、罪の意識で支配されてしまっているような状態のとき、それと直面したときって、

こわくて、こわくて、「神様許してください」と言いたくなるようなときが、あることがあります。

けれども、これって、「わたしは大変な罪を犯すことができました。そして、それについて、神様はわたしを裁いています。けれども、わたしは許されたいのです。どうか許してください」というような思いが、「神様許してください」のその奥で働いていると思うのです。

そうすると、神様、あるいは、神は、「裁く神」ということになってしまって、無条件の愛としての神とは、別である、ということになります。

これが、また、悪いとかいう話ではないのですが、祈るときに、とても大事なことって、心を開いていることです。

心を開く、というのは、それだけ受け入れます、受け取ります、という意思があるということでもあると思います。

その受け取ったものは、体験としても、受け取ることになります。

 

 

ちなみに「神様は無条件の愛だから神様には罪悪感を感じないけど、人に対しては罪悪感を感じる」というような場合もあるかと思うのです。

このような場合は「内側=外側」になっていないので、ここを丁寧に見ていく、気づくことがまず大切です。

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