「気づくだけでいい」について

2018年からブログで「気づくだけでいい」ということを書いてきました。

今も、まさに、その通り、という感じです。

 

 

例えば・・・

まず最初は、顕在意識(表面意識)に上がってきているなにか(問題だと思うこと、反応、感情、思考など)から、

内観によって、心の階段を降りていきます。

すると、思い込み・信念・価値判断を握りしめていたことに”気づく”、というだけでも、呪縛(自己)から解放されていっています。

「気づき=解放」みたいな感じです。

なので、スッキリ感だったり、広がりだったり、感謝だったり、落ち着きだったり、

感覚はその時々かもしれませんが、こんな感じになるのが、気づきです。

 

 

それで「気づいてるけど、で?となる」というご質問はよくいただくのですが、

この場合は、

「エゴのメガネをかけて自分の心をみている」

「ジャッジ、自分責め、自分いじめ、問題視、不要な信念を握りしめたまま、外側に原因探しなどをしながら・・・自分の心を見ている」

ということなので、

どんな自分もOKしながら、裁かずに見ていく。

・・・けれども「どんな自分もOKしながら、裁かずに見ていく」と書くと、一定数「どんな自分に対しても、良いという判断を下しながら見ていく」ということが起きるので、

一番、安心安全最大公約数で書くと「神聖な存在とともに見ていく」となります。

 

 

その時点での「自分」はエゴと同一化して、自分や相手を責めていたとしても、

「どう考えても、これは正しい」と思い込んでそのこと自体に気づけないとしても、

「神聖な存在とともに自分の心を正直に素直にみる」という決意と実践で、

だんだんと「(裁くことなく)ただ心を見る」ということができるようになってきます。

素直になる・正直になる対象、というのは、「誰かに」じゃなくて、「自分自身に対して」「内なる神に対して」です。

そんなふうに、自分自身に対して、内なる神に対して、素直に正直になると、自然と相手に対しても素直に正直になるようになります。これは、どういうことかというと、(無意識的にでも意識的にでも)相手を警戒したり、疑ったり、取り繕ったりなど、防衛することがなくなるので、

「防衛する必要がある出来事、人」を引き寄せなくなる=そのようなドラマを作らなくなる、ということです。

 

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「気づくだけでいい」というのは、本当にその通りで、

ノージャッジでただただ「こんなことを思ってるんだなぁ」と認めていくだけ、感じていくだけ、受け入れているだけ、です。

・外側に求める思い

・人のせいにする思い

・相手に変わってほしいという思い

・手放したくない、という思い

・人によく見られたい、という思い

・期待

・・・こういったすべてを、まずは、ただ、認めます。

このような思いを持っていることについて、禁止したり、ジャッジしたり、隠したり、問題視したり、する必要はなくて、

なにより、ただ認めるだけです。

 

 

「ただ、認めるだけです」と、文字にすると簡単そうなのですが、意外とこれが難しく感じる・時間がかかる、ということはよくあることですが、

「ただ、気づく」上で、とても重要なことです。

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