怒りや嫉妬はエゴに捧げず、神に捧げる

怒りや嫉妬などの攻撃的な思いは、押し殺さないことが、本当に重要です。

「こんなこと思う自分が悪いんだ、感情的になるのは悪いことなんだ、我慢我慢」としたって、

いつか、爆発するか、

爆発しなくても態度行動しぐさなどに現れて「なぜか運が悪い」みたいになるか、

投影されるか、

です。

本当に、おもしろいほどに、「自分が押し殺していた怒りをあぶり出してくれる現象」が起きたり、ある日蘇ってきたり、するものです。

でも、これは、浄化のチャンス、天然の健康な解毒作用、みたいな感じです。

これを、押し殺したままでいる、というのは、たとえば、たとえばですが「腸の中に毒素や異物を保ったまま、健康になろうとする」みたいな感じです。

早く、出しちゃったほうが、いいのです。

 

 

けれども、このとき、この怒り、恨み、憎しみ、嫉妬などの感情を、エゴに捧げてしまうと、その循環から抜け出せなくなるというか、「同じことの繰り返し」「モグラ叩き」みたいになってしまうものです。

エゴに捧げる、というのは、その怒りや、恨みや、憎しみや、嫉妬などを、正当化したり、開き直ったり、「自分が被害者で相手が加害者である/自分が正しくて相手が間違ってる」ということに、なんの疑いも持たない、ということです。

なので、こういうときは、「ああ、エゴと同一化している」「ああ、これがエゴの働きか」という「疑い」を持つことで、「エゴのドラマの上映」を終わりに近づけることができます。

 

 

怒りでも、恨みでも、憎しみでも、嫉妬でも、「自分が被害者で相手が加害者である/自分が正しくて相手が間違ってる」でも、自責/他責でも、

そういった感情が出てくるときは、浄化のチャンスなので、その思いをそのまま、神に捧げる、神に打ち明ける、のが、一番です。

神に捧げる、ことで、どんな感情も、奇跡の道具、癒しの道具、幸せの道具として、使われていくのです。

 

 

感情の浄化は「正しいやり方」で向き合ったとしても、数日〜数週間、長い場合ではそれ以上かかることも、めずらしくありません。

でも、我慢したり、押し殺して平気なふりをしたり、あるいは「自分が正しくて相手が間違っている」と思い続けたりしても、同じことの繰り返しかもしれない、これでは自分が苦しいだけでなんの解決にもならないかもしれない、と気づいたときは、

目的をはっきりさせることで、結果は確実となります。

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