奇跡は魔法じゃない

奇跡は魔法じゃない。

「魔法のような」「魔法のように」と言いたくなることもあるかもしれないけれども、奇跡は、魔法や呪術じゃない。

どちらでもいいじゃん、と言いたいところだけれども、

エゴは、魔法や呪術を、意外とよく「使っている」ので(無自覚的にかもしれないけれども)、

区別をはっきりさせるのも大事なのかもしれない、と最近になって思うようになった。

最近といっても、ここ、1年?2年?話なのだけれども。

ちなみに、魔法や呪術というのは、たとえば、原因のないところで解決しようとすること。心理学などでの「トラウマの再演」などが、それに当たる。

原因は、心の中にしかない。この世界の中にはない。

この世界の中(相手、外側、出来事、状況)を変えることで、心が癒えることはないし、本当の原因が解決されることはないので、似たようなことを登場人物やセッティングを変えて繰り返すとか、モグラ叩きみたいになるとか、そういうことになります。

だから「この世界の中のことを操る方法」などを、ここでは語っていません。

ただ、自分の心の中、心の奥で選択していたものを変えることによって、被害妄想が被害妄想であったとわかる、このとき、よくあることとして、「この世界の出来事が、自分が、必要としていた形に一致するか、それ以上の形で、具現化する」ということはありますし、それどころじゃなくなったくらいの恩寵の中にいることを体験するということもあるでしょうし、いろいろありますが、

一つ言えるのは「エゴが懸念しているような、悲しい、寂しい、犠牲や諦めを伴うような形にはならない」ということです。

 

 

究極的には、なんでも、どちらでもいいし、わたしは、根本的にはそう思っているのだけれども、

「エゴ」「個」の視点からすれば、カルマも輪廻転生も過去生も「ある」し、

様々な「呪い」を解く(自己呪縛から目覚める)上での区別、というのも、「本人の心の癒し」に役に立つのであれば、軽視はできないですね。

でも大事なのは「心の癒し」に役立つかどうか?ということであって、エゴの目的に役立つかどうかではないということです。

あると言えばあるし、ないと言えばないし、その上で、どんな時も大事な基準というのが、自分が自分に正直であること(正直でありたいと思っていること)と、自分の心の癒しが目的、ということです。

 

 

鏡で見る、というのも、言い方を変えれば、自分と相手の罪のなさ、無罪性、純粋性を見る、それだけを見る、受け取る、ということです。

「相手のこういうところを見て、嫌だなと思って、自分にもあると思ったから、反省して、直すように努力する、それをしないように努める」というのとは、違うのですけれども。。。

そのように、受け取られることは、多いようで。。。

けれども「相手のこういうところを見て、嫌だなと思って、自分にもあると思ったから、反省して、直すように努力する、それをしないように努める」これって、なんというか、エゴをエゴが再教育しようとしているだけなのではないかしら、と思うのです。

そんなふうに、相手をジャッジして、つまり、自分をジャッジして、「より良い自分、完璧な人間になろう」としたところで、孤独を目指しているようなものです。

完璧にいい自分(人間)になるためには、周りがダメである必要があるからです。

 

 

人間としての自分は、どう考えたって欠けたところ、凸凹、というのは、あるものです。肉眼を使えば、形上の違いというものは、あります。

けれども、愛そのもの、神の子としての自己というのは、完璧性そのものです、誰だってそうです。

そして、その、愛そのものの自己というのは、今までも今もこれからも永遠に、愛されてきたし、愛してきました。このことについて「そうは思えない」つまり、愛以外が存在している、愛する以外のことをしてきた、と思っているから、鏡で見ながら、罪の意識から解放されていくのです。

 

 

完璧に愛されてきたし、完璧に愛してきた。

「愛されていない」というお話を聞くことは多いのですが、どちらかというと、

相手から自分が愛されているということを、自分が許可できるかどうか?という話です。

意外と、許可できていないのです。

エゴは、どうしても「わたしが思うような形で、わたしが指定した相手から、わたしが指定した日時に」ということをやりたい、そして、そのようにすることで「ほら、わたしは愛されていない」ということをやりたいので、「許可が出せない」みたいになっているのですけれども、

それを脇に置いて、ただ純粋な目で、まっさらな目で、心で、みたい、と思ったとき、完璧に愛されていて、完璧に愛していて、愛を与えられていて、本当にそのままでよかった、ここに、罪悪感も、自責も、諦めも妥協もなく、それはそれは満ち足りている、ということを、受け入れることになります。

このとき「自我の妄想(被害妄想や加害妄想など)」が消える、という”証拠”を体験として受け取るのですが、

これが「自分がそれと実感できるような形での愛の体験、あらわれ」で、これを奇跡と読んでいます。

「過去が癒やされた」というときも、同様に、その”証拠”があらわれるものです。

本当に原因があるレベル(心)だけにフォーカスするので、魔法でも、呪術でも、ちちんぷいぷい的なものでもないので、「なぜか同じような問題を繰り返す」みたいなことにも、ならない、ということです。

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