こんばんは。
出張から帰ってきました。
メールや、グループレッスンクラスのコメントを、本当にありがとうございます。
まだすべて読めていないのですが・・
帰宅して、メールボックス、コメント欄を開いて・・
なんというか、感謝でいっぱいになったのでした。
それで、今、「愛というのはこわいもの」について、書いてみたいと思います。
みなさん、すぐに奇跡を受け取りはじめます。
というか、セッション1回目の後に「あれは奇跡だったんじゃないかと思いました」だったり、「セッションを申し込めたのも奇跡だったと思いました」だったり、お話してくださる方もいらっしゃいますし、
早い方だと、質問票提出前に、奇跡を受け取り、しかも、持続している・・ということもあります。
「祈って奇跡を受け取る、ということを繰り返しているうちに、神様への信頼が深まってきました」とたくさんの方からメールをいただきます。
しかし
幸せな奇跡を受け取り続けていたある日・・
こんなに奇跡を受け取って、いいのでしょうか?
こんなに簡単に幸せになって、いいのでしょうか?
こんなにたくさん奇跡を受け取って、後から取り上げられるんじゃないか、みたいな気持ちになってきたのですが、
愛を受け取るのがなんだかこわいような感じがしてきたのですが、
これは一体なんなんでしょうか、抵抗なんでしょうか?
というメールをいただくこともあります。
「ですです、抵抗です」とお返事をして、一緒にお祈りをするのですが・・。
ありますよね〜!わたしも、ありました!笑
本当に、神様の采配、神様の奇跡というのは、気前が良すぎというか、優しすぎというか。
わたしもあるとき「ええ?いいの?さすがに、ここは、もっと厳しくしなくていいの?」と、言いたくなるほどの、大きな大きな愛を受け取っていたことがありました(この話は、超絶長くなりそうなので、また今度)
それで、神様の愛というのは「人間の常識」を超えますので、人間感覚からすると「いや〜、それはダメでしょ、ダメなものはダメって教えてあげなきゃ」みたいに言いたくなることもあるのですが、
神様的には、もう、すべてを愛で溶かす、という感じなのです。
ダメ、とか、条件付けのしつけ、とか、そういう感じじゃないのです。
北風系か?太陽系か?でいうと、完全に、太陽系です。
もう、とにかく、与えてくださりまくる、という感じです。
「何をしたとしても、何もしなかったとしても、わたしはあなたを愛している」ということを、無条件に教え続けてくださっているのが神様で、
それをヒステリー起こして聞こえないようにしているのがエゴ様、という感じです。笑
それで、この大きな大きな愛、「あなたは罪を犯したことなど一度もない、神聖な光そのものだよ」と教えてくれる愛というのを、こわくなる、というのを、わたしも経験したことがあります。
というか、どちらかというと「愛のことをこわがっている」のが根底にあった、ということです。
だから、愛を受け取れなかった、というか、受け取りたくなかった。
愛は怖いので、愛に似たもの(恋)をほしいと思うことにした、という感じです。
それでも、愛、というのは、存在そのもの、本質なので、
どんなに自分が誤解していようが、否定していようが、こわがっていようが、
愛を体験する時期、本来の自分自身の光を輝かせる時期、広がる時期、というのがある。
これは、もう、桜の木が、どんなに自分で自分のことを電柱だと勘違いしていたとしても、時期がくれば、枝も根もぐんぐんと伸びていって、葉や花が開いていって、自分のまわりに小鳥や人々が集まり始める・・のと同じです。
けれども、ここで、自分のことをエゴだと勘違いして、愛をこわいものだと思い込んでいると、
「今までと違う感じだけど、大丈夫だろうか?」みたいな感じになったり、「うまくいきすぎていてこわい」みたいな感じがしたり、あるいは「自信がない、自分には愛を受け取る資格なんかない」と思うことにする・・ということがあるのです。
もう、ずっと愛はダダ漏れ状態だったけど、愛を隠せなくなってる時期にきている、
どう足掻いても「自分は価値がない、愛されるに相応しくない存在」だとはもう言い張れなくなってる・・という感じ。
愛が大きく広がれば広がるほど、どんどん「簡単」になるので、今までの「難しくてややこしい時代」とはあまりにもリズム感が異なるので、ちょっと、違和感を感じる、という場合もあるようです。
「がんばって、努力して、気を遣って、頭を使って、汗水垂らして、苦しんで・・」みたいな感じとは、もう、まるで違うので、「あれ?」ってなる感じです。