悪口・批判・愚痴を聞く方のお話(その1,000)

悪口・批判・愚痴を言う方、ではなく、聞く方、のお話です。

「まわりに、(第三者の)悪口、批判、愚痴を言う人がいて、嫌だ」という場合についての記事を前にも何度か書いたことがありますが、

ひとつ、大切なことが抜けていた、と思ったので、このブログを書きます。

 

 

どんなときでも、自分の気持ちに蓋をしない、ということは忘れずにいたいし、

このブログを含めた「自分の外側」に答えや正解を求めても、それは見つかりません。

”真の”、答えも正解も、常に、内側にあるからです、「外側からやってくる、現れる」ように思えることがほとんどですが、内側にあります。

内側が先、というか、内側がすべてです。

 

 

話を戻して「まわりに、悪口、批判、愚痴を言う人がいる」という場合。

このとき、確かに「耳で聞く」と苦痛、ということはあると思います。

けれども「心で聴く」ということを意図したとき。

まったく違ったものになるでしょう。

まったく違った流れを、自分も相手も受け取ることができるでしょう。

 

 

「心で聴くとは何か」ということについて。

もしここで「傾聴ってことですね」と「はいはい、わかったわかった」となる場合は、ちょっと待ってください。

「はいはい、わかったわかった」「わたしそれ、知ってます」は、

愛の奇跡に対する防衛(エゴの作戦)なので、一旦脇におきます。

「わかりたい、知りたい」と逸る気持ち、焦る気持ちも、エゴの作戦なので、外に走り出したい気持ちをグッと内側に向けます。内なる神に全てそのエネルギーを捧げる感じです。

 

 

「心で聴くとはなんだろう?わたしには、わからない。学ばせてください。教えてください。導いてください」と問う(祈る)ということを、してみます。

すると、その答えが「外側からやってくる、現れる」ようにして、体験を通して、受け取れたりするのです。

 

 

悪口・批判・愚痴。

「そんなこというなんて、ダメ」と自分の判断を相手にも押し付けて禁止したくなるときは、自分に対して判断を押し付けて禁止しているときです。

ジャッジメントと愛(奇跡)は、真逆のもの、真逆というか、絶対に同居できないものみたいな感じです。

わたしたちはみんな、このエゴの囁きに、何度も誘惑されるからこそ、日々練習して、心の習慣を変えていくのです。

 

 

どんな自分も受け入れていくということは、今の目の前のこと、人、現実のことを、

ありのままに、そのままを、受け入れられるようになっていく、ということでもあります。

それはまた、他の言い方をすると、この世界のこと(現実、外側・・・)について、ほんとうに思い煩うことをしなくなっていく・・・

それが、ほんとうに、深まっていく・・・

いつだって、完璧に神に養われている、完全なる安心安全に守られている、大いなる導きの中に常にいる・・・

ということです。

「ある日突然そうなる」というよりかは、どんどん深まっていく、という感じです。

だから、受け入れたくないとき、拒絶したいとき、というときは、ある意味、そのチャンスが現れているときです。

 

 

でも、やっぱり、忘れちゃいけない、つまり、わたしたちがとっても忘れがちなことは、

どうしても「こんなふうに思う自分はダメだ!」と禁止したり、自分を責めたり、してしまうことです。

自分を裁くこと、自分に鞭を打つような厳しさで接すること、溢れ出しそうな感情をぎゅうっと押さえ付けること・・・

それに気づいたら、立ち止まって「わたしは、今、自分が愛を受け取ることだけに、責任があるんだった」と、思い出せるようになることが大切です。

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