正直にいうと、
・鏡で「で???」となる場合
が、わたしには、よくわかりませんでした。不思議でした。
わたしも「これはどういうことだろう?」と思うことは今までにありましたが「で???」とはならなかったのです。
その問いかけに対するメッセージが「祈り」「神との関係」でした。
それで、祈りについて、セッションで深めていく機会が増えました。
わたし自身、ずっと感覚的な感じだったところを、この数年間で理論的にも、丁寧に学びを深めていくことができました。
すると、今度は、
「自分は最悪なダメな存在だけど、神様は無条件の愛だから、神様から愛されているというのは受け入れられる。でも、人からは、裁かれると思って、こわくなる」
とご質問をいただくことがちらほらあるようになりました。
これも、わたしは、一瞬不思議に思いました。
「自分はダメな(人間)ではなくて、愛そのもの(魂、スピリット)である」ということは、その都度お伝えしていたのですが、
何度も、同じご質問をいただくので「なんだろう???」と思っていました。
「誰かから裁かれる」という意識は、そのまま「きっと神からも裁かれるだろう」という無意識の思い込みにつながっています。例外、というのが、ないからです。
神から愛されているということがわかっているのであれば、その愛をこの世界でも感じている、ということになります。
神を一番に愛する、一番に求めるということは、神から愛されるということですが、「どのようにして神から愛されるのか?」というのは、心からの幸せ、満たされる感じはもちろんですが、この世界の何かを使って、神はそれをあらわしてくれる、答えてくれる、みたいな感じでもあります。
「神は人を使って人を助ける」ということがよく言われますが、そんなふうにして、この世界の何かを使って、愛を現してくれている、という感じでもあります。それを、受け入れられる状態に、自分の心を開いていく、というのが実践です。
話は戻って。一瞬不思議に思ったあと、同時に、ハッとしたのが、「それは、わたしじゃない」ということです。
これが自分、と思い込んで責めている自分は、エゴによる思い込みであって、ほんとうの自分ではない。
ほんとうの自分は愛そのもの。
わたしじゃないものを、わたしだと信じ込んでいるから、その「自分だと信じ込んでいる自分ではない自分像」を手放して、本来の自分、愛そのものである自分に戻っていく、ということです。
愛そのものである自分、言い換えると、魂の輝きを放たれるがままにしている自己、です。
その外側に投影してきた「強烈に憎たらしい、腹立たしい姿」は、あなたじゃない。わたしじゃない。その「影」を光に捧げるだけ。
ほんとうの姿を見たい、と心から思うとき、ほんとうの姿を見ることになります。
何度も何度も、忘れることがあっても、それは、そういうものだから、何度も何度も、思い出し続けていきます。