後悔があるとき。
あのとき、ああしておけばよかった。こうしておけばよかった。
なんであのとき気づけなかったんだ。
なんであのときあんなことしちゃったんだ。言っちゃったんだ。
わからなかったんだ。
過去に戻ってやり直したい。
過去の自分に教えてやりたい。
過去の自分に言ってやりたい。
なんであのときあんなことしちゃったんだ。言っちゃったんだ。
って、後悔しちゃうとき。責めちゃうとき。
このように後悔を続けたいか?
反省会をして、自分で考えて、自分でなんとかして、妥協したり、諦めたり、頑張ったりして、いい人間になろうとする機会として受け入れたいか?
それとも癒しの機会として受け入れたいか?
「わたし」はどちらを望むだろう?
「わたし」の中に選ぶ力がある。
すべて尊い。
どれを選んだとしても、愛し愛されていることには、実は、変わりはない。
(自分が認識できるかどうかは別として)
癒しの機会として受け入れたいなら・・
”わからないもの”に心を開いてみたいという、ほんのかすかな思いを心の中に見つける必要がある。
”わからないもの”、それは、頭ではわからないもの、この世界の常識ではわからないもの、過去の経験則、過去の統計ではわからないはずのもの、でも心の奥では、なんか、なんとなく、ずっと前から知っていたような、そんな感じがするかもしれないもの。
”わからないもの”に心を開くとき、もしかしたら、今まで、自分が正しいと確信していたものが、そうじゃないかもしれないってなるかもしれない。
今まで、自分が間違っていると思っていたものが、そうじゃないかもしれないってなるかもしれない。
今まで自分だと思っていた自分が、自分じゃないかもしれないってなるかもしれない。
今まで自分の考え、自分の思い、自分の感覚だと思っていたものが、そうじゃないかもしれないってなるかもしれない。
でも、その癒しのプロセスの中で、ある意味、とても不安定な癒しのプロセスの中で、わたしたちは、
「心の奥では、なんか、なんとなく、ずっと前から知っていたような、そんな感じがするかもしれないもの」
に、全身全霊をかけて、耳を澄ませていくことになる。
今までにないほど、全力で、”それ”に、頼るようになる。
ジャッジメントやコントロール欲求、価値判断、信念・・
そういったものを退け続ける中で、わたしの本当の感覚に、しっくりくる。深く安心する。
ずっとあったその場所に、ゆったりと、くつろいでいられることを、自分が自分に許可できるようになる。
そして、この癒しは、世界中すべての人々、過去未来全時間軸の中のすべての人々と、分かち合われていく、そう、導かれていく。