責められているように感じるとき、というのは、
自分が自分を責めています。これはエゴと同一化していることによるエゴの働きです。
そして、ここでいうエゴというのは、自己中心性、作者倒錯、ということができるのですが、
エゴと同一化しているときは、内観などをしているうちに「わたしは、なんて悪い、未熟な、恥ずかしいことをしていたんだろう」と思うことがあります。
ここで、重要なのは、エゴというのは、人間集団の機能不全です。このことを何度も思い出していく、受け入れていくことも、大切です。
例えば、わたしは昔、現実創造などを学んでいて、「自分に原因がある」「自分に責任がある」というのを目にしたとき、
なんだか、自分が悪いような、自分に問題があるような、それを責められているような気持ちになったことが、ありました。
けれども、これこそが(自分に責任があると読んで、自分が責められているような気持ちになる)、エゴの働きだったのです。
内観や浄化がまだ十分ではないまま、「エゴのメガネ」をかけたまま、仕組みを学びはじめると、
学びの内容自体が「エゴ補正」されてしまう、とは、まさにこのことです。
現実創造などで言われる「自分に責任がある」「自分に原因がある」というのは、
「あなたが悪いんですよ!正しなさい!」という話では全くなくて(自分が悪い、という囁きは、大分類で言うと、エゴとの同一化によるものです)
自分には幸せを選択する責任がある、みたいな感じです。
自分の心には、幸せの原因となるものがあり、それをわたしは選ぶことができる、みたいな感じです。
「自分には幸せを選択する責任がある」「自分の心には、幸せの原因となるものがあり、それをわたしは選ぶことができる」
といっても、「なんかこわい」という場合もありますが、それもそういうものです。
大きな幸せ・奇跡を前にしたとき、というのは、こわくなることって、あります。
「自分で作った」というのも「鏡の法則(投影)」というのも、
もう、これを認識したときには、笑えてくるか、感謝が溢れ出てくるか、大体そのどちらか、みたいな感じです。
投影というのは、自分の幻想(妄想)と、自分が格闘している感じだからです。
でも、自分の幻想ということを忘れちゃっていて、「相手がそういう人、世界がそういうもの」と見てる感じです。
本当は、いろんな面があって、そのいろんな面、いろんな事柄の中から、わざわざ、自分が、
「ダメな自分」に相応しいように、切り取って、キャスティングしている感じ、です。
そして、その自分をゆるします(その自分は全部自分ではありませんでした)、「わたしはダメな人間、劣った人間、価値のない人間(=自分のことをそのように判断した自分は正しい)」という思い込みは間違っていました、という感じです。
そして、自分の心の奥、自分の中にあった、愛とつながることを感覚します。