ゆるす、ということがすべてといっていいほど。
なぜなら、誰かのことを、ゆるせないと思うときというのは、ほんとうは、自分自身のことをゆるしていないから。
自分自身のことをゆるしていないまま、自分が自分に「ありえないほどの愛と喜びと幸せと恩寵」を許可することはできない。
すでに、そして、永遠に、与えられ続けている「想像を絶するほどの愛と喜びと幸せと恩寵」を、自分が自分に、許可できない。
このことは、最初は「意味がわからない」となっていたとしても、内観していくと、あるとき、「確かに」となる。
「わかっちゃいるけど、どうしてもゆるせない」と思ってしまうときがあるかもしれない。
ただただ「相手が悪い、どう考えたって相手が悪い」としか思えない、ということかもしれないし、
「信じていたのに裏切られた」「最初は大好きだったけど、大嫌いになった」ということかもしれないし、
「大好きという感情と大嫌いという感情の両方がある」ということかもしれない。
「大好きなはずなのに、憎しみや恨みのような感情があって苦しい」ということもあるかもしれない。
これは、みんなが、経験することなのかもしれない。
でも、ここで、正当化はしたくない。開き直りたくはない。「苦しみの共感」で終わりたくない。
なぜなら、わたしは、完璧な幸せを望むから。完全なる愛の体験を望むから。この世界で幸せな夢だけを見たいから。
それで「どうしてもゆるせない人がいる」というとき。
まずは「ゆるせないと思うことによって、自分が苦しんでいる」ということに、気づきたい。
「ゆるせないと思うことによって、自分が自分を攻撃していること」に、気づきたい。
そして、現時点において、どんなに、納得がいかなかろうが、
「ゆるせない(=ゆるすことは不可能)」というのは「できる・できない」というエゴの二元の考えであって、
大事なのは「ゆるしたいか・ゆるしたくないか(何を望むのか)」ということであるということを、
現時点において、どんなに、納得がいかなかろうが、
「そういうものらしい」と何度も何度も自分に思い出させてあげる。
その上で、「本当は相手をゆるしたくない」「相手をゆるす気なんてない」という思いがあったなら、ただ、それを認めて、大丈夫。でも、正当化したり、開き直ったり、しなければいいだけ。
そして、その中で、「ゆるせないと思うことによって、自分が苦しんでいる」ということや、「ゆるせないと思うことによって、自分が自分を攻撃していること」を、「確かに、そうだ」と気づくかもしれない。
ここが、一致することは、本当に、ものすごいことなんだと、今、ほんとうにそう思う。
いったい、どれほどの、天からの支援があったことだろう、と思う。
そして、その壮大な支援をずっと受けとり続けていたということも、ものすごいことなんだと、今、思う。
今、ふと、聖書の中に「100匹の羊を飼ってる者がいて、その中の1匹がいなくなったら、99匹は野原に残しておいて、いなくなった1匹を見つけにいく」という話があったことを思い出した。(見失った羊のたとえ、でした)
自分の心の中に「ゆるしたい」という気持ちを見つけるということは。
もちろん「心が広いわたしが、罪深いあなたをゆるしてあげましょう」という意味じゃない。
そうじゃなくて、言い換えるならば「あなたを全き愛のまなざしで見ることによって、自分自身が愛を受け入れたい」ということ。
「今はゆるしたくない」なら「いつかゆるしたい」でもいいと思う。
「今」も「いつか」も、「今」にしかないから。
「いつかゆるしたい」という思いを持ちながら、「ゆるしたくない気持ち」が癒やされたいと望む気持ちを、心の中に、見つけて、保ち続けていく。
こういったことは、自分が自分の心の中を、見ないと、見つけることができない。
もちろん、いろんな、カウンセリングやセラピー、祈りや瞑想が助けになってくれる、ということもあると思う。
でも、ほんとうに、大事なのは、自分が自分の心の中に、愛に戻りたい、という思いがあることを見つけにいくこと。
祈りって、こっち側の、願望、欲求のこと。
あなたを無条件に愛する完全なる愛に対して、「愛に戻りたい」と、本気で欲求したとして。
それが、叶えられないということは、ありえない。
じゃあ、この「本気で」の「本気」とは何かというと、まずは、自分が自分の中に「ゆるしたくない気持ち、ゆるす気なんて全然ない気持ち」があったことを、正当化も開き直りはせずに、ただ見つけて、ゆるす。
自分が持っていた様々な思いや感情をゆるす。
そして、その奥にある「ゆるしたい」という思いを、自分が自分の心の中に、見つけること。