「抵抗なのか?魂が嫌がってるのか?区別がつかない問題」というのがあって、よくご質問をいただきます。
正直、わたしは、今まで、感覚でやってきていて、今までうまく言語化できていなかったかも、と思ったので、
今日はこのことについて書いてみたいと思います。
「無難な回答」としては、「慣れ」だと思っています。
自分の正直な素直な声をよく聞くようにしていく、誤魔化さずにそのままを見ていくようにしていく、
内観していく・・
内側に、感覚に、繊細になっていく・・
このことを続けていっていると、
「抵抗なのか?魂が嫌がってるのか?区別がつかない、わからない」という、もどかしさというか、問いというか、そういうのも、自然となくなってくるものです。
というのも「問い」というのは、すべて、エゴだから。
だからと言って、エゴが悪い、問いが悪い、質問しちゃダメだ、ということではありません。
そんなふうに禁止したところで、自己否定の信念を強めるということになりかねません。
(そういえば、ホオポノポノでは、「質問というのは記憶の再生」と言われています)
わたしの感覚としては、問いだったり、エゴだったり、執着だったり、問題だったり、そういったものを、神に捧げることによって、奇跡の道具になる、目を覚ますための道のりになっていく・・という感じです。
だから、ダメって禁止したり、隠したり、よくしようとしたりすると、もったいない感じです。
焚き火のとき、薪を、燃やすために、火の中に入れますが、この薪が「問いだったり、エゴだったり、執着だったり、問題だったり」で、火が内なる神、創造性、という感じだからです。
「こんなエゴの願い、持ってちゃダメ!」とか「罪悪感は持たなくていいんだ!(本当は罪悪感感じてるのに)」とかそんなことしなくても、そういったエゴの思いというのが、焚き火のときの薪になるのです。
(焚き火でいうと、祈り、というのが、火を大きくするための風かな・・?)
それで。
「抵抗なのか?魂が嫌がってるのか?区別がつかない問題」について。
これで、ちょっと、自分は実際どうだったっけ?と振り返ってみました。
すると・・「自分の感覚として嫌だと感じているとき」というのは、100%(多分100%)抵抗、という感じです。
嫌がってるとき、というのは、大体、固定観念、価値判断など、不要なエゴの概念があるとき(薪があるときって感じですね)、
つまり、浄化チャンス・奇跡チャンスです。
それで、反対に「魂がそっちじゃない」と言ってるようなとき。
これについて、思い出せなかったので、祈ってたら、あることを思い出しました。
この「あること」というのが、具体的に、ブログには書かないほうがいい感じがするので(関わる人たちが多いし・・)、ざっくりと書きますが、
その思い出したことというのが、
「あの誘いに参加していたら、事件に巻き込まれていたであろうということを、数年後に答え合わせした」
というような出来事を経験したことがあります。
それで、事件に巻き込まれていたら・・かなり大幅に、今とはシナリオが違ったと思います。
今、あるエネルギーワークをしているのですが、それができなかったかもしれません。(その事件に巻き込まれていたら「これに該当する人はできません」の事項に引っかかっていただろうから)
その「あの誘い」というのについて、当時、わたしは、特に、嫌だと、感じなかったのです。
「嫌だ」とか「なんか嫌な感じ」とかじゃなくて、「なんとなく、やめとこ〜(別にどっちでもいいけど、やめとこ〜)」という、どちらかというと、軽いノリでした。
しかも、興味も注目も薄かったので、「数年後の答え合わせ」みたいな感じです。
それで、これを思い出した後に、
そういえば、あれも、あれも、もしかしたら、「そっちじゃない」サインだったのかもしれない、
みたいなことを、いくつか思い出しました。
そして、その「そっちじゃないサイン」の共通点は、
・「嫌だ」とか「なんか嫌な感じ」とかじゃなくて、「なんとなく、今はいっかな〜」みたいな軽い感じ
・周囲の流れや、自分の超天然うっかりミスなどによって、遮られる感じ
でした。
つまり「嫌だ」とか「悪い予感がする」とか「邪悪な妖気を感じる・・」とか、そういう感じじゃなくて笑
なんとなくボケっとして、結果的にそちらを選ばなかった、という感じです。
「めんどくさい」とも違うんだよな〜。
「めんどくさい」は、わたしの場合、「格闘感」があるのです。
あ、でも、
「嫌だ」とか「悪い予感がする」とか「邪悪な妖気を感じる・・」とか、そういう感じを感じながら、でも内観しないまま、
何かをしたり、行動に移したりすると、
後から、必ず、「はい、内観しましょうね〜」みたいになりますよ 笑
※つまり「嫌な出来事が起きる」ということです
それで、内観すると、必ず、自分が、自己否定の信念、エゴの固定観念、価値判断を持ってたとき、という感じです。
祈って、奇跡に変えてもらう、奇跡を受け取る・・という感じです。
「嫌な出来事(外側)」というのは、
抑圧された「嫌な感情、思考、信念、欲求、固定観念、価値観など(内側)」が炙り出されただけなので(投影)、
もともと内側にあったものが、外側に出てきただけなので、
遅かれ早かれ、どこかに投影することになる・・ということになります。
あ、そうだ、思い出してきた。
昔、自己否定が強すぎてたときのことです。
このときは「いきたくない、嫌だ」と感じることを、「したい、した方がいい」とも感じる、というようなときがありました。
「断りたいのに、断れない」「嫌な予感を無視して、実行して、後悔する」みたいな感じでしょうか。
それで、このとき、「嫌なものは嫌だという」「自分の意見をはっきりいう」ということを、勇気を持って、やってみてたときがあったのです。
すると「嫌なものを嫌だと言ってもいいし、自分の意見をはっきりいうことは悪いことでも、人を傷つけることでもなんでもない」と、受け取れる流れになったことがありました。
それで、いわゆる「運気が良くなってきた」じゃないですけど、流れがすごくよくなった感じを感じていたことがありました。
しかし
そのしばらくした後で、また、同じこと・・つまり「嫌だ」と言いたくなることが、がやってきたのです。
しかも、似たようなこと(嫌だから断りたい的なこと)が連打で。
連打でしたし、メインの出来事は「家族全員頭が痛くなる」くらいの感じでしたので、
これはもう、神様からの贈り物だな、と思って、本気で祈りました。
そのとき、わたしは、実際「断る」という対処法をとっていたのですが、あえて、断らずに、祈ったのです。
こんな感じで、です。
「神様 これは贈り物なんですよね。けれども、わたしは、目が見えなくなっていて、頭が痛くなる出来事にしか見えなくなっています。どうか、わたしが心の目で見ることができるよう、助けてください。あなたから差し出されている贈り物を受け取ることができるよう、力を貸してください。ありがとうございます・・」(そして、この出来事の、本当の愛の意味を受け取るまで、わたしはこの祈りから一歩も動かないぞ、という決意)
自分自身とも、その関係者とも、向き合った、という感じでもあります。
それで、まさに「メッセージ」を、受け取りました。
その後、その「家族全員頭が痛くなる」的なメインの出来事は、突然ピタッとなくなって、
その周辺の「嫌だから断りたい(実際断ってた)」的なことも、消失しました。
そういえば、この辺りから、リーディング能力に対する妙な罪悪感も消えましたし、
「聴力(肉体じゃない方の聴力)」も、すごく、クリアに、よくなった感じがあります。
・・こうやって振り返ってみると、
抵抗していようが、嫌なものを嫌だと遠ざけていようが、
自分さえ決意すれば、いつだって「これで完璧だったんだ、ずっと導かれていたんだ」となる、ということ。
実際、わたしは、たくさん抵抗して、何度も嫌なものを嫌だと遠ざけてきました。
だからこそ、嫌だというとき、というのは、自分自身を解放するチャンスだということも、すごく感じられるのかもしれません。
「あの誘いに参加していたら、事件に巻き込まれていたであろうということを、数年後に答え合わせした」
ということについても、
「わたしがそれに参加した方が、わたしと全体にとっての幸せへの近道、一番効率がいい道」だったなら参加していただろう、と思うのです。
しかし、わたしは、それに参加しない方が、近道だという道があった、というだけのことです。
運がいいとか悪いとか、そういう話では、全くないのです。