究極をいうと相手の幸せや快復などを祈るわけではない

「祈り」という言葉を、去年からブログでも書きはじめるようになって、「究極をいうと相手の幸せや快復などを祈るわけではない」ということを、いつか書かないといけない、と思いつつも、書けなかった。

 

 

 

旧ブログでもそうでしたが、わたしは、大事なことほど「こわくて言えない、書けない」ようで、それは、小さい頃に遡る気がします。

小さい頃の両親はすれ違いが多く、衝突も多く、情熱的だったのか、激しい喧嘩をよくしていました。

父と母は同じ職業(父も母も教員、ついでにいうと父方は親戚一同ってほど教員家系)で仕事の話をよく二人でしていて、お家の中で、一人っ子のわたしはそれを聞いていました。

もちろん、内容はよく覚えていないのだけど、子供ながらに、「誰にも言っちゃいけないような内容かもしれない」と思って、黙っていたことを覚えています。

父も母も仕事をしていたので、わたしは、母方の祖父母の家に預けられていました。

わたしは、煙草とお酒と散歩が大好きな祖父が大好きでしたが、祖父は、しょっちゅう身体を壊し、入院していました。

退院して、大好きな祖父が家にいるときは、祖父と祖母は喧嘩していました。

祖母は社交的で、交友関係が広く、ご近所付き合い・親戚付き合いも完璧だった(いわゆるデキる女、オシャレだったし、株不動産してたみたいだし)、

よく自宅に近所のお友達を招いて、今でいうところの女子会みたいなことをしていました。

子どものわたしから見ると「おばあちゃんたち」が集まって、おしゃべりを延々としている。

 

 

そんな背景で育ったわたしは、大人たちの話を聞きながら、とても気を遣いあう感じだったり、緊張感だったり、怒りを抑えながら”正しく上品にしあう感じ”を、感じ取っていたんだと思います。

なぜそう思うかというと、両親や祖母や大人たちが「子どもだからわからないわ」というのを聞くたびに、わたしは、「意外と子どもはわかってるって、覚えていよう。そして、自分が大人になって自分が発言力を持つようになったら、意外と子どもはわかってるって、教えてあげよう」と心に決めていたことを、覚えているからです(笑)

結局、それを伝えるような場面は訪れませんでした(笑)

 

 

 

そんなわたしは、小児喘息でした。

あるときから、自然によくなっていたのですが、最近また、喘息が出てきました。病院に行って検査をしたら、「軽いけどね」とのことでした。

お薬のおかげもあって、だいぶ、よくなってきています。

 

 

 

喘息って、胸から喉の辺りのチャクラで、この辺りは、「言いたいことを言えない、うまく言えない、まっすぐ伝えられない、うまく表現できない等々」というのがあったりします。

わたしの場合だと「そういう家庭・環境・時代を選んで生まれてきた」ということで、「言いたいことを言えない、まっすぐ伝えられない、表現できない」というのはわたしのテーマでもあり、家系のテーマでもあります。先祖代々とか、遺伝子とか、そういう感じでもあるんだと思います。

 

 

 

よほどこの、言いたいことを言えない、というか、わたしの場合だと「大事なことほど、言うのがなんだかこわい」というのは、

自我が「このブロックは大事に大事に厳重に保管して持っているように、ついでに言うと、見ないようにしていた方がいいぞ」とでも言ってるのか、ブログを書きはじめてから、何度も何度も、経験しました。

年々、その傾向が強くなって、でも、それが押し出されていっているかのようにして、軽度の喘息・大人バージョン。

 

 

 

それで今日のタイトル「究極をいうと、相手の幸せや快復を祈るわけではない」という話を、ずっと書きたかったのだけど、ずっとこわくて勇気が出なくて・・・という日々を過ごしていたところ、あるクライアントさんからメールをいただいて、その中に、「愛する人の幸せを祈れない」と書いてありました。

この方も、継続セッションなどで何度もセッションを重ねてきたり、ヒアリングシートやメールを読ませていただいたり、してきたので、「わかる」と言えるのですが、とても人を愛する方で、人から愛される方です。

人を愛するということは、人から愛されるということだし、人から愛されるということは、人を愛するということです。

なんだか、背中を押されたような、気がしました。

それで、今日のタイトルについて、書いてみたいと思います。

ほんとうに、ありがとうございます。

 

 

 

わたしたちは、愛する人や誰かの幸せを祈るとき。

あるいは、愛する人や誰かの快復を祈るとき。

「自分のために祈っている」ということを、忘れてはなりません。

 

 

 

相手=自分

まわりの人=自分

です。※自分=相手、自分=まわりの人、でも同じことです。

鏡ですので。

「わたしが誰かのために祈ってあげました」は、なんというか、ここでは、ちょっと、違う話になってきますし、「わたしが祈る」「誰かが祈る」というようなことではないです、文章的(?)に。

 

 

 

究極的なことをいうと、たとえば、ご病気の方を見て、「この方に良くなってほしい、元気になってほしい、長生きしてほしい、健康でいてほしい」と思いながら「この方が健康になりますように」というのは、外側をコントロールしたい(思い通りにしたい)ということになります。

相手が病気のときに病気である自由、相手が肉体を脱いで天国に帰る自由、というのは、相手の中にあります。どんなときも、なにか、ほんとうの意味での愛の意味があるのです。

 

 

 

しかし、わたしたちは、

ご病気の方や、災害に遭った方、事件事故の被害者の方、具合が悪くなったペットちゃんをみて、「元気になってほしい、良くなってほしい、長生きしてほしい、健康でいてほしい」あるいは、家族や我が子や大切な人をみて、「幸せでいてほしい」「いつまでも健康でいてほしい」「長生きしてほしい」と、思う場合があります。

わたしは、そういう場面に遭遇すると、もしかしたら、人一倍、動揺する方かもしれませんし、強くそう思う方かもしれないので、だから祈ってます、だからこそ祈りに縁があったのでしょう、という感じなのです。

 

 

 

たとえば、わたしは、身近な人が病気になったり、とてもつらい状況にであったりすると、なにも言えなくなる、なにもできなくなる、普段から気が利かない方だと思いますが、ますます気が利かなくなります。

それで、だから、もう、神様って感じにすぐになります。

そして、祈るのですが、わたしは、祈るとき、すぐに、「相手=わたし」「まわりの人=わたし」ということを、思い出して、

このわたしの内側にある全て、この目の前の現象、それについてなんとかしたい、なんとかなってほしい、というすべてを神に差し出して、全てを預けて、ゆだねる、というようなことを、内的に、何度もします。

これは、ニュースなどが耳に入って、胸が痛んだり、怒りを感じたりしたときなども、そうするように、わたしは、しています。投影なので。わたしが作ってる、ということです。

 

 

 

「愛する人の幸せを祈れない」というのも、また、とても正直で、ピュアな話だと思います。

こんなにも、まっすぐで、正直で、ピュアな声を、ありがとうございます。

 

 

 

愛するからこそ、とてもとても愛しているからこそ、相手の幸せを祈れなくなってしまう。

ほんとうに、ほんとうに、深い部分で寄り添いあっていたからこそ、自分のすべてを、隠しようがないほど、わかりやすく、映してしまって。

 

 

 

他の人には隠せていたのに、一番大事な人には、その一番、隠していたかった、隠したいほどに自分で責めていた幻の自分を、映し出してしまう。

わたしも、そんな時期を、長く過ごした経験があります。(ひとりはママ、もうひとりはうふふくん)

 

 

 

愛する人の幸せなんて、祈らなくても、大丈夫です。

ただ、ただ、この世でたった一人のこの自分という肉体の、心臓の、その奥に、神はあって、

自分が今まで外側の誰かに向けていた愛と同じ、いや、それ以上の愛をもって、神が両手を広げて待っている。

自分が今まで外側の誰かに向けていた大好きと同じ、いや、それ以上の大好きを持って、神が両手を広げて待っている。

自分が今まで外側の誰かに向けていた恋しさと同じ、いや、それ以上の恋しさで、神は、あなたがこちらを向いてくれることを待っている。

だから、愛する人の幸せを祈れないときは、祈らなくて、大丈夫なのです。それで、正しいのです。

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