言語化・安心の土台・具現化

自分の気持ちを言語化するということについて。

内観をしていたり、あるいはお仕事をしていたりする中で、「言語化をすることはとても大事だよね」ということがあって、

そうすると「わたしは言語化が苦手!言語化ができない!」という場合がある。

 

それで、わたしは、セッションやプライベートで「言語化が苦手、言語化ができない、なんとかしなくっちゃ・・」というお話を聞くことが何度もあって、自分を振り返れば、わたし自身も「言語化が苦手、言語化ができない」ということを思った経験はあります。

 

それで、ちょうど昨日のグループレッスンでも、クライアントさんから言語化系の素敵なシェアを聞いたばかりなので、今日は言語化について、ブログを書いてみようと思う。

 

例えば、内観や書き出しをしていくとか、そういうときに、「なんて書いたらいいかわからない」ということもあるかもしれない。

あるいは「うるさい」とか「消えたい」とか「もうどうしていいかわからない」とか、一言しか、出てこない、ということも、よくあることかもしれない。

そういう場合は、まず、それでいい(それを書けばよい)のだけれど、こういうときは「うるさい」と言っている”誰か”に、興味を持ってみると、「うるさい」と言って、部屋の隅で体育座りしている感じの”誰か”が、少しずつ、話してくれる・・ということがあるかもしれない。

映像を見せてくれる、ということもあるし、自分の身体の感覚を通して何かを伝えてくれる、ということもある。

このことは、とても、クリエイティブなことでもあると、感じていて、このように内観していく中で、自由な感覚、あるいは、自分言語が、どんどん、解放されていく。

 

 

わたしはセッションをしていても、この「その方なりの表現、誰の目も、なんの教科書も、意識していない、その方のピュアな表現、感覚」を感じることがとても大好きなんだけど、

その方にとっての表現というのは、その方にとっての「普通(どうってことないこと)」となっていることがほとんどで、

でも、自分の言葉、自分の感覚で・・ジャッジメントやコントロールのない領域に包まれながら、自由に表現できるということは、やっと大きく息を吸って吐くような、やっと魚が水に戻れるような、そんな安心感と開放感がある。

もちろん、ここで、「一般的に、すごいとされているような感じの、難しい日本語やビジネス用語を駆使した感じの言語化」であっても、それが本人にとって、心地が良い場合というのは、相手とも心地の良さを共有するものなんだと思うし、言葉をたくさん知っているということも、心が望みさえすれば、神によって光としての輝きを広げるための道具となる。

 

 

例えば、内観をしていて・・

なんか、ザワザワする、心が嫌な感じがする、というとき。

(A)わたしはAという出来事について、焦り、苛立ち、不安、責任感、無価値感を感じ、このAの出来事に不快感を感じたのは、自分の能力が低い自分のせい、もしくは、この社会のせいだと思っており、能力と価値は等しく比例するということ、自分の力でなんとかしなければならないということ、自分は必要とされていないということ、自分は無条件の愛や完璧な幸せに相応しくないということ、誰も助けてくれないということなどを信じているようだ。さらに、このことを問題だと思い、わたしの心が落ち着き、平安を感じるためには、もっと頑張って仕事ができるようになり、会社でみんなに認められ、お給料もアップして、結婚することが必要であると信じている。

・・このように言葉にしてもいいし、

(B)なんか胸の当たりがざわざわする感じがする。すっごく、嫌な感じを感じている。このざわざわは、胸の中心から、身体中にまで広がってる感じがする。身体中に虫がいて、その、身体中の虫が騒いでる感じがする。わたしは、この感じを感じて、居ても立ってもいられない感じがする。さらに、この身体中の虫を追い払うために、わたしは、走り出したいような、そんな感じがする。

・・このように言葉にしてもいい。

(A)と(B)と、今、思いついたままに、適当に例を書いてみましたが、わたしには、(A)であれ、(B)であれ、「神と出会う直前」「ひっくり返る直前(=奇跡まであと0.1ミリ)」に、見えます(笑)

もう、わたしは今、将棋の羽生善治氏の「勝利の震え」状態って感じです(笑)

 

 

あ・・妄想が膨らんでしまいました。話を戻して、

このAもBも、どちらかというと「マイナスの方の内観」なんだけれども、これがあまりにも重要で、なぜなら、これの奥にしか、「光」がないからです。

 

 

光、完璧な愛、安心の土台、神聖性、成就の力、限りのない力、本当の自分、本当の本心・・言葉はいろいろありますが、

この「マイナス」をよーくみることで、浄化されていき、マイナスの奥にある光と繋がります。

すると、はじめて、自分の感覚と一致して、自分の心の奥から、はっきりと望むことができる、安心して意図することができる、

つまり「思う=すでに与えられている」とか「思う=具現化」とか「パラレルワールド移動するだけ」とか

その感覚も感じられる。

言葉で出てくる場合もあるでしょうし、イメージ(ヴィジョン)で出てくる場合もあるでしょうし、感覚や体感覚などでくる場合もあるでしょう。

そしたら、それを「感謝の心で受け取り、心の中で大切に飾っておく」みたいな感じです。

 

 

重要なのは、というか、「引き寄せとか具現化とかそういうのはもう学んできたし、知ってる、わかってる。でも、全然現実は微妙だし、心も微妙だ」という場合は、

マイナスをよーくみること

ただ、よーく、みること

その「マイナス」は無であり、その奥には完璧な光がある

↑これをすっ飛ばしてるというのが(できないにしろ、気が向かないにしろ、間違って教わってるにしろ、誤解したまま学んでるにしろ、なんにしろです)が、ほとんどです。

このマイナスをよーくみる、というのは、「あの押し入れの中には、幽霊がいるから、開けるのが怖い」となっていたのを、「灯りをつけて、押し入れを開けたら、幽霊はいなかった、怖くもなんともなかった(埃っぽくはあったけど、掃除できてよかった)」ということを確認する、という感じでもあり、

「あの押し入れの中には、幽霊がいる」と思ったままでは、「顕在意識において、これを望む」と思っていても、心の奥から望めないし、やっぱ、押し入れの中の幽霊が気になる、みたいになってしまいます。

反対に、

その「マイナス」は無であり、その奥には完璧な光がある

ということを実感していくと、言葉というのは、自然に出てくるようになります。

しかも、その言葉というのは、安心を土台にしたところから発せられる言葉です。

自分言語で、のびのびと喋れる、安心感。

(A)でも(B)でも、どちらも、尊いです。

 

 

ちなみに、わたしは、(A)か(B)かでいうと、もともとは(B)タイプです。

語彙力とか、文章構成とか、「国語の、日本語の、授業です」みたいなところでいうと、大変微妙だと思うのですよ。

いまだに「個人の人間としてのわたし」は、「語彙力がないことがコンプレックスで、だから、たくさんの語彙力と文章力を身につけたいけど、新聞などを読むのは嫌だ」だと言っています。

それで(A)タイプでも(B)タイプでも、反対側と手を繋ごうとする気持ちがあると、奇跡体質、恋愛成就体質、という感じです。

「反対側と手を繋ごうとする気持ち」というのは、例えば、

(A)タイプさんは、(B)タイプさんの、ざっくり感覚的な表現にイラッと、モヤッとすることがあるかもしれない。「めんどくさい」と思うことがあるかもしれない。

(B)タイプさんさんは、「ジメジメしたアスファルトの上で、ひとり置いてけぼりで、雨に濡れてる感じ・・」などを、(A)タイプさんに話したら、(A)さんが「ああ、それって、自己憐憫とか、惨めさとか、孤独感とか、そういうことなんじゃないの」みたいな感じで言ってきて、それを聞いて「クッキーの型に無理やり、当てはめないでよ!」とか「いや、そういうのとも、ちょっと違うんだよな〜(わかってねーな、こいつ)」と、言いたくなることが、あるかもしれない。

 

 

しかし「東洋は西洋から学ぶべきで、西洋は東洋から学ぶべきだ」と言った。わたしは、その通りだと感じた。

さらに「神は人を使って人を助ける。すべての人の中に神を見るかどうかは、あなた次第である。例外を作ってはならない。これは幸せのためのものである」と言った。わたしは、幸せだけを望むと思ったので、是非ともそうありたいと思った。

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