明らかにもう

大浄化グループレッスン、ありがとうございました。

心から感謝です。言葉にできません。

わたし自身が、どんどん、浄化、されていっています、みたいな感覚。

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正直に書きたい。

なんというか、もう、「仕える先」が、「エゴ」から、「エゴ以外へ」と、どんどん一本化されてしまっています。

もともと、心の奥では、ずっとそうだったんだけれども。わたしにも「遠慮」「気を遣う」などがあったのかもしれない。

つまり、たとえば”いい人でいたかった”、ということです=悪夢をみていたかった、ということ。

きっとこれからも、わたしのなかでは、そうしたものが、発生するのでしょう。

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いつからだったか、ずっとそうだったのか、忘れましたが、ほぼ毎年、ずっと、10月頃〜5月上旬くらいまでは、「痛み」がひどかった。

そして、毎年、年末年始頃に、破壊欲求がきていた。なにもかもを、白紙に戻したい、なにもかもを、やめてしまいたい、そんな感覚です。大切な家族は、そんなわたしを、ただただ、じっと、みていてくれたのです。

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今年も、毎年恒例行事であったけれども、今年は、一切の妥協がなかった、

いや、もうちょっと正確にいうと、一切の妥協がありませんように、”あなた”だけを見ています、どうか使ってください、と、ひたすらひたすら、懇願、嘆願していた。

すぐに、助けはやってきて、それは、広がるような、感じだった。

しかし、寝ている間(就寝時)の悪夢さえ、強烈で、毎朝、毎朝「もうなにもかもやめたい」という”わたしに浮かぶ声”に、引っ張られそうになりながら、毎日毎日、祈り、その広がりの中に、戻っていた。

これに、今年は、「呪詛」「呪術」「魔術」を、一切つかわなかった。

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「エゴ」を強く強く、固く固く信仰していたわたし、そして、目に見えない領域においてまで、はっきりと”見るようになった”わたしは、

信仰先を「エゴ以外」に変えた、変えるしかなかった、なんどでもなんどでも、戻り続けた。

あまりにも、なんどもなんども、祈り続けた。

年末年始の寝起き直後、どう考えても「自分にとっては痛み」みたいなものに対して、嘆願し、懇願し、たずね続けた。

そして、なにもない。ただ広がる。

わたしは、なにもない。何者でもない。

ただの道具でしかない。

人やエゴや呪術や神話にはもう、仕えることはできない、お腹いっぱいになった。

でも、「不変であるそれ」に仕える、この道具でしかない。

「物質の移動」「所有したと言いはる何かの移動」「持って来させようとする攻撃性」

これも、もう、お腹いっぱい。十分に、楽しめた。

「それでも、まだ」「そうはいっても」と、いう、勝手に生じる声すら、もう、焦げてしまったあと、みたいな感じ。

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一生懸命だったんだと思う。そうなんだと思う。

なにをどうみるかなんて、人それぞれ、あなた次第なのですよ、と、2018年頃から、学んできた。もちろん、本腰入れたのが2018年で、それ以前も知識としては知っていた。そして、やっと痛感した。

過去も、未来も、まったく、意味がないと痛感した。何度も何度も、痛感した。きっとまた「誘い」はやってくるのだろう。

「その誘い」を、あるときは乗りつづけてきて、交わそうとしつづけてきた。

それを受け入れつづけていると、自分も、そして、外側も、丸見えになった。

あるときは、神様にひれ伏すしかなかったし、あるときは、それにつつまれて、ただ、安らいでいた。これを何度も繰り返した。

クライアントさんも家族も、含めて、「奇跡」などは、正直もう日常である。

奇跡というのは「幸せな方の夢」です。「たったひとつ」を思い出したゆえの夢。

そして、わたし自身がもう、夢に重きを、どんどん、置けなくなっていってる。置いたふりも、できなくなっていってる。

もともと、自分がなにをしたいのかなんて、はっきりよくわかってないような感じだったし。かと思えば、あるときは、あれもこれもしたいと言い張るし、そんな「わたしに浮かぶ声」を、受け入れるなら、もう、神様に支え続けるしかなくなったし、

それを「ひねって伝えようとする努力」みたいなものが、ほんとうにもうできない。どうじに、「ひねって伝えようとしている鏡」も、もう、影なのです。

もともと、上手な方じゃなかったけど。

そして、そういうのを、受け取ることも、悲鳴を上げてしまっている、わたしのなかの誰かさんを受け入れることが、もう精一杯(笑)

それが、苦痛であろうが、ちょっと苦痛はあっても安寧がともにあるほうであろうが。夢は夢。

「ちょっと苦痛はあっても、苦痛が苦痛じゃなくなるほどの安寧がともにあるほう」この話しか、できなくなってしなった。

説得納得や、憐憫や、ひねりが、もう、わたしにはできないと、何度も何度も、年末年始は、叫びつづけていたのかもしれない。

妥協のない、光だけを、見つづけるしか、したくない。

わたしは、「それ」に、嘘をついたら、速攻、アレルギー反応が、でるのですよ(笑)1ミリも、嘘を許してくれない。

ごまかしとか。

「いや、とはいっても、相手のほうが、世界のほうが大事だから(自分をほんの1ミリ犠牲にすることでみんなと仲良くすべきだと思いますから)、魂、霊、神様、我慢してね」の、”15秒間”を、魂はゆるしてくれない、「わたしの肉体」。

そりゃもう、日本語訳、人間語訳すれば「死にたい」「消えたい」「なにもかも壊したい」となりますわな。

(そして、さらにここで、”優越誰かさん”がくるのが、ハッキリ、わかる笑)

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とかいう感じです。最近。

この「わたしはなにものでもない、ただ、神にだけ、たったひとつの愛に」という、想い。

大浄化。内なる愛。

問題はないし、夢は夢。神の意思しかない。

わたしは、いったい、どこへ連れていってもらえるのか、わたしも、わからないけれども。

まるでそれは、旅人が、「本と、ほんのすこしの現金と、パスポートだけ持って」旅に出るような、解放感、に近いかもしれない。(と、うふふくんの話を聞いていて、そう思った)

ほんのちょっとでものガイドに聞く勇気・たずねにいく勇気、

あるいは、ガイダンスさえあれば、それでよい。

それで、「ちょっと苦痛はあっても、苦痛が苦痛じゃなくなるほどの安寧がともにあるほう」の夢となる。

夢は、二択。

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