「助けを求めるのが苦手」と、自覚していらっしゃる方、いらっしゃいますか?
「助けを求めるのが苦手」と、自覚していらっしゃる方、いらっしゃいますか?
と、問いかけてみたら、たくさんの方が、「苦手です」といってくださったこと、本当に、ありがとうございました。
ここで、言っているのは「聖霊に助けを求めること」です。
ある人は「人に」助けを求めるのが、ただ、苦手だといいます。
人に助けを求めるのは悪いこと、恥ずかしいこと、自分でなんとかするのがいいことだ、と思う、とおっしゃる方もいらっしゃいます。
それを聞いていて、わたしと同じだなぁ、と思います。
わたしは、「人に」助けを求めるのが、得意なようで、苦手でした。
「得意なようで」というのは・・あるときまで、自分で「人に助けを求めるのが苦手だ」と自称していたのですが、すると、まわりの人、家族から、「助け求めまくってるじゃん!笑」と笑われたことがあったからです。笑
たしかに。
わたしは、どちらかというと、すぐに、人に頼ったり、助けて欲しいと言ったりしてしまう方で、でも、心の奥には、罪悪感があったので、なんかいつも変な感じがして、心が苦しかったときがありました。
今思えば、みんな助けてくれていたのに、一人で「責められてる気がする」と思っていたり。
「助けてもらうなら、何かお返しをしなければならない」と思っていたり。
「何かお返しをしなければならないのに、何もない、何もできない」と思っていたり。
こうやって、自分を責めるのに必死でしたから「受け取る」ということが、全然、できてませんでした。受取拒否ですね。
それで、その先には、「神様に助けを求める」という、とても幸せなレッスンが、待っていたのでした。
「人に」助けを求めることができない、のはなぜかというと、
「聖霊に、神様に」助けを求めることができない(=したくない)、ということの表れです。
なぜ!?
なぜ、神様に助けを求めることができないの!?
そう思って祈っていると・・
あるとき・・
ある方が「罪悪感があると、助けを求められないのよね〜」とおっしゃっていて「まさにその通りだわ・・!」となりました。
罪悪感があるのに、罪を犯したと信じ込んでいるのに(信じ込んでいたいのに)、助けなんて、求められるわけ、ありません。
わたしは、今も、「神様に助けを求める」日々です。
どんなことでも、すぐに、神様に助けを求める。(=これを嫌がってる自分に、とにかく、気づきまくる)
そうして、祈って、受け取る。
たまーに、祈りのときに、誰かの顔が浮かんできて「この方に会う」という感覚を受け取ることがある。
そのとき「この方に会いたい、会ってみたい、繋がりたい」と思うこともあれば、
「え?この人・・?(会いたくないとかじゃなくて、自分では関連性が全然よくわからない感じ)」と思うこともある。
そういうときは、会いに行くようにしている。
「わたしは人間で、この世界で生きている」
「この世界での幸せな、驚きな、喜びな、体験を受け取りたい」
そう、思っているんだから「行動すること、人と会うこと」も、大事だと思うようになったからだし、
「行動すること、人と会うこと」の中で、その奥にあるものを感じる中で、
豊かさとは、こういうことだ、と、感じるようになった。
そう思うようになったのは、「行動しなければならないのにできない」と、自分を責めていた時期が長かったからで(10代の頃とかガチの引きこもりでしたので笑)
だから「行動することや人と会うこと」も、「じっとしていること、一人でいること」も、その奥には、同じ喜びがあると、感じられるようになってきたのが、嬉しい。
豊かさって、貨幣や、数字、”物質のランク”などのことじゃ、全然、ない。
ここを、混乱したままでいることを自分に許可するということは、自我に騙されることを自分に許可するということ。
「詐欺師」に騙されることを自分に許可しているようなもの。
自分で自分を傷つけることを許可することを、自然とやめたいと思うようになっていくというのは、愛に心を開くことだと思う。
愛に心を開く。
スピリットに心を開く。
心の目をひらく。