「こんな問題があった。どうしたらいいの?」
「こんなことで悩んでいる。どうしたらいいの?」
「これをなにがなんでも叶えたい。どうしたらいいの?」
「何度も何度もネガティブな考えが襲ってくる。どうしたらいいの?」
「どうやってゆるすの?」
「どうやって愛するの?」
心と向き合うとき、真の自分自身と向き合うとき。
自分自身との一致、目覚めを目的とするとき。
愛、恩寵、完全な幸せを望むとき。
心・霊性・法則性などを学ぶとき。
もし、そうであるなら、この「どうしたらいいの?」を終わらせていくこと、超えていくことを、いつか、どこかで、受け入れるときがきます。(これはもうそういうものだ、みたいな感じですよね・・)
私も、最初の方というか、結構長い間「どうしたらいいの?」を、外側に求め続けていました。
というか、外側に求めていることに無自覚なことが、多かったと思います。
それで、私は「どうしたらいいの?」があったからこそ、心や精神世界などについて、色々学ぶことができた、いろんなところに出かけて、いろんな人と会うことができた・・ということもあります。
昔の私の「学び」は、「エゴの学び(情報を獲得するため、なんとかするための学び)」、「頭の学び」、みたいなこともたくさんあったのかもしれませんが、それでも、後になって、浄化が進んでいくなかで、やはり、大きなものを受け取ってきた、ということに気づきます。
そして、「今の心の在り方次第で、過去も未来も変わる」みたいな感じのこともたくさん体験しました(この世界的な、物理的な体験です)。
だから「今までのやり方、全部ダメで、間違っていて、無駄だ」みたいに、決めつける必要は、どこにもない。
今の心の在り方次第で、すべて、愛に戻る。すべての過去が祝福され、その「証」を見ることができる。体験することができる。
私も、あるとき、はっきりと、意識で「どうしたらいいの?を終わりにしよう」と決めました。
それでも、その後も、「どうしたらいいの?」という思考が浮かんでくることはあるし・・
というか「どうしたらいいか、本気でわかりません」と思うことは、ここ数年、強くなっている気がする・・笑
でも、以前のような「迷路にはまりこむ」みたいなことは、自然となくなりました。
「どうしたらいいか、本気でわかりません」と思うことは、ここ数年、強くなっている気がする、という、今は、もう、本気で、祈って尋ねて、指示を求めて、聞き、従い続けています。
本当にわからないから、聖なる存在に尋ねています。
よく「わからない」という場合がありますが、本気でわからなかったら、本気で祈って、本気で尋ねると思うのです。このようなときは、なぜ、本気で祈って尋ねないのか、心に問いかけてみたいところです。
それで、たとえば、「今、このことについて、どのように向き合ったらいいかわからず、私は助けを必要としている」というようなとき、まずは、(できれば)内観していきますが、
聖なる存在に「どうしたらいいでしょうか」とそのまま聴きます。
(それで、誰かの顔が浮かんだり、感覚、ガイダンス、声、考え、こうしてみたいなどの感覚などを受け取ったりして、その人に会いにいく、というようなことはあります)
「どうしたらいいの?」思うのは、大変よくあることで、問題視する必要も、深刻視する必要もないのだけれど。
もし、本当の、心からの幸せ・癒し・奇跡・愛の体験を望むのであれば、祈ったり、なんでも尋ねたり、対話したりするのは、すごく、いいと思う。
でも、同時に、実際にこれ(なんでも尋ねる)をやってみたら、「これでいいのだろうか?」とか「こういうときどうしたらいいのだろうか?」とか「なんだこれは?」とか「こんな感じになっちゃったけど、どうしたらいいんだろう」などの質問は、出てくると思います、出てきても普通のことです。笑
こういう、実践したり、向き合ったりする中で、出てくる質問は、癒しのための機会として受け取っていきたいですね。
だから「祈りとガイダンスについて、学びたい・実践したいという方たち」と、一緒に、学びたい・実践したいと、ずっと、思っているのだけれど・・。
迷いというか、モヤモヤがあり、祈って、尋ね続けていました。
それで、現れてきたもの、受け取ってきたもの、明瞭になったものは、
「同じ土台(祈りの土台)を共有している必要性」でした。
私の場合の道、土台は奇跡講座だったので、ここに、ピンときたり、すでに縁があったりした方がいて、もし、これからも一緒に、人生を共にできるなら、本当に、ありがたいことだと思っています。
「同じ土台(祈りの土台)を共有している必要性」について。
これは、「混ぜるな危険(危険っていうのともちょっと違うかもしれませんが)」と関係があります。
「目覚めの道」「霊的な道」(心・スピリチュアル・悟り・自己実現・自己啓発・願望成就・引き寄せも全部ここが根っこです)は、たくさんあります。
これは、登山によく例えられます。
「山頂は一つで道はたくさんある」というものです。
それで、祈りやガイダンスって、この登山ルートが同じ人と一緒に学ぶ必要がある、ということが、私の中で、もうこれ以上、誤魔化せないものとして受け取りました。
この世界には、いろんな登山ルート(流派とか宗派とか理論とか、もっというと、それを超えて色々です。物理学、芸術、いろいろです)があります。
どれも、素晴らしいものですし、あるとき、どれも同じであるということに気づきます。
だから、私は「どの道の方が良いか(序列、比較)」みたいなエゴの思考は、もう、問答無用で、立ち入り禁止にしています。笑
すべてに敬意と感謝を忘れずにいたい。
そして、その上で、「自分の感覚がこれだと言っているもの」を大事にしようと思いました。
他の道を排除したいとか、否定したいとかじゃなくて、「自分の感覚がこれだと言っているもの」を大事にしたいし、
考え込んだり質問が湧き出てくるほどまでに混ぜて考えるのは、ナンセンスだと思う。
それで、たまたま、私の感覚と、あなたの感覚が、同じであれば、それはもう、本当に、ありがたいことだと思います。
祈りやガイダンスについて、みんなで学びを深めたいし、一緒に実践したい。
是非とも、「私もそうしたい」と思う人と、そうしたい。
でも、祈りって想念なので、想念の土台が同じであることが必要なので、これからは、この辺りを、重視していきたいと思っています。
特に、オンラインクラスや、グループレッスンなどで、このあたりを皆さんと共有したい、と、今、思っています。
継続コースでの祈りやガイダンスについてのセッションはとても素晴らしくて、その上での、複数人レッスンを、という感じでもあります。
「一人で実践する」って、難しいというか、時間かかりすぎるというか、無理というか。もちろん、そうする必要はないし、そんな縛りなどはないのだけれど、実際、やっぱそうなるし。
逆を言えば、複数人で学び、実践を共にすることで、受け取るものは、もう、言葉にできないほど・・巨大すぎる。笑
でも、祈りやガイダンスって、本当に土台が大事で(何度もいう、何度でもいう笑)
あとは、やはり、私の感覚で書くと、「これはエゴ」と疑える力が必要というか。
これは、他の「道、土台」で学んでいたときも、指導を受けていました。(言葉・表現はそれぞれ異なりますが)
「スピリチュアル色(?)」が強くなるほど、つまり、「無制限感半端ない学び」ほど、
なぜか、この、「エゴに対する警戒心、マインドの浄化」は、厳しめに教えられていたような、気が、します。
だから、というわけでもありませんが、こういうことを思い出しながら、祈りやガイダンスの学びや実践は、
ブログよりも、オンラインクラスや個人セッションなどを、メインでやっていきたい、というか、その必要性を感じているという感じです。