繊細さは短所ではない(日記)

ringoです。日記です。

 

 

スピリチュアルにようやく心が開けてきて。数ヶ月?

わたし自身、かなり、「離陸時のときのような不安定さ」を経験しました。

というか、この似たような感じの経験は、人生で三度目くらいな気がするような、しないような。

 

 

先日、ある人と話していたときに、「昔、自分の感受性の強さや繊細さを、悪いことだと思っていた」ような節があったことを、ふと、思い出しました。

これは、当時、自分で自分のことを「感受性が強い。繊細である」と思っていたわけではなくて・・・。

幼少期からのわたしの心の不調を、母がいつも「それは感受性が豊かだからよ」「繊細すぎるのよ」と言っていて、

そんなやりとりの中で「わたしの心の不調→みんなに迷惑をかけるしみんなと同じようにできないし自分も苦しいし大変に生きづらい→自分の感受性や繊細さは悪いこと」という構造が出来上がってしまったようだったのです。

 

 

それで、わたしは「いろいろなことをスルーできるようになりたい」「もっと見えなく、聞こえなく、感じなくなるようになりたい」「おおらかに(言い換えれば図太く)なりたい」と、思っていたことがありました。

 

 

そんなことを、何かの話の流れで、ふと、思い出したのでした。

 

 

それで、今思うのは、感受性や繊細さ、という、それ自体は、ほんとうにそのままでよかったんだ、ということ。

感受性が強くて、繊細な、素敵な人を、わたしはたくさん知っていて、たくさん出会ってきて、

わたしが教えを乞うた先生方は、みんな、感受性が強くて、繊細で、素敵な人たちで、

最近もまたそんな人に出会って、その人は、涙もろいのだけど、とても可愛くて、大切な人を大切にしている人で、だから、そう思ったのでした。

 

 

この繊細さを、ほんとうに、活かしていくためには、浄化も、癒しも、欠かせません。

そして、ネガティブに同調するのではなく、光に同調していくこと。

ネガティブに共鳴していくのではなく、光に共鳴していくこと。

なんか、そんなようなことを、強く強く、思いました。

これまでも、何度も何度も、そう思ったのだけど、繊細さや感受性の強さを悪いことだと思っていた過去が、まるで、懐かしい昔の写真、のようにして、ペロン、と出てきたことで、

繊細さも感受性の強さも、「生きづらさの原因」などではない、幸せを見つける能力の高さであり、幸せを広げる能力の高さであり、そのために使われていくものなんだ、と、やわらかく、腑に落ちました。

 

 

こんなこと、書いちゃって、いいのかなって、ちょっと思わなくもないけど。

たまに「消えてなくなりたくなることが、たまに、あって」と、優しい声で、そっと、お話ししてくれる方と出会うと、なぜか、霧のように広がる光のような”ある意味その人”が、みえたりして。

ほんとうは、霧のように、きめ細かくて、どこまでもどこまでも広がっていることが本質だからそうしていたくて、ああ、それを、その人は、覚えているんだと、感じたりすることがあります。

わたしの場合は「もうこんな場所にはいたくない、カエル!」だったけれども(笑)

ある方は「還りたい」。ある方は「消えてなくなりたい」。ある方は「愛と聞くと、嫌な気持ちがする」。

わたしには、どうしても、「”こんなはずではない方”のほう」「ほんとうのほう」を、覚えているのではないかと、思えて仕方がなくて。

それは恐ろしいものでも、無でも、なくて。

コーラと0カロリーコーラの記憶を、両方持ってる、みたいなイメージ。「やっぱ、なんだかんだ言って、せっかくコーラ飲むなら、コーラよね」みたいな。

そして、それを、この世で思い出して、ただただ安心して幸せでいることを決めているから、そしてそれを、体験することを、誰かと分かち合うことを、決めているから、だから、まだ、「こんな場所」にいつづけてきた感じがして。

 

 

それを、思い出したら、ただただ安心してくつろいで幸せで満たされているときに、ふと浮かぶ「こうなったら素敵」という「願い」は、誰にも内緒であたためているうちに、ふわっと「形」になるような、そういうものでしかない。としか、思えない。

時間も空間は、そのためにあるなら、不自由なことではなくて、楽しそうなこと。

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