(A)水の中に、ほんの、一滴、一滴と観測できないほどのほんの少量の、墨を落としたその水の色。無色透明であると言い張っても、何の問題もないであろう、その水の色。
(B)墨そのものの色。
この外側の世界こそがリアルであると、思い込んでいることにも気づかないほどであった頃、大変生きづらかったのは、世の中で、(A)に墨が混じっていることが「見えていた」からで、でも、誰かにそれを話したところで、全く相手にしてもらえなかったからかもしれない。どんなに「(A)は透明ではない、墨が混じっている」と言ったところで、誰も、相手にしてくれない。
そして、(A)に墨が混じっていることを、おかしい、という。そんなことを言ったら人を傷つけるからやめなさい、という。
まだ幼かったわたしは、そんなものかもしれない、と思う。
そして、黙っているか、まわりに合わせるか、という選択肢をとった。
少し経った頃、もう我慢の限界をむかえた。
まわりに合わせて、自分の気持ちを飲み込むという処世術は、発狂への道だった。
あの頃はまだ、どうしたらいいかわからなかった。自分も、まわりも、どうしたらいいかわからなかった。「流されるまま」「身を委ねるまま」だった。
ある見方からすれば「連れて行かれるまま」というのは、心地よかったけれども、「まわりに合わせるために、自分を閉じ込めておくこと」という「癖」はなかなか抜けなかった。
最初の最初は、「この世界に静寂をみたい、平安をみたい、そうであるはずだ」という思いつきから作り出した「まわりに合わせるために、自分を閉じ込めておくこと」という「癖」はなかなか、抜けなかった。
「まわりに合わせて、自分の気持ちを飲み込む」のは、もう限界を迎えたので、あるとき、それを全て吐き出した。怒りとも、発狂とも言えたものを、吐き出した。
わたしがずっと言葉にできないまま、思い続けていた「この世界は怒りに満ちていて、狂っている」ということを、もう、飲み込んでいられずに、吐き出したところ、「あなたの怒りは尋常ではありません、狂っていますね」という言葉がそのまま返ってきた。
ここで、ピリオドを打てばよかった、ということ。
この世界は、夢。
狂気の夢か、安寧と共にある夢か、その二択。
自我はなんどでも、同じことを繰り返す。「同じことではない」ように、見せながら、巧みに姿を変えながら、同じことを繰り返す。
それを、ずっとみていると、(A)と(B)の差がなくなった。
差がなくなった、というよりかは、
「差」は知覚できるのだけれども、なんというか、序列のようなものがなくなった。
そして、自我こそが、「その序列に差があり、善悪があるので、(A)は良いけど、(B)は悪い。あるいは、(B)に比べたら(A)のほうがまだマシだ」みたいなことをいうのである。
そんな自我を、ずっと、みていたら、これはもう、「焦げた枠組み」のようなもので、さらにみていたら、自我は「存在しないけれども存在しているとあの手この手で仕掛けてくるという特徴を持つ」ということが、見えてきた。
自我は説得・納得が、上手なのである。
自我自体は、人類すべてにおけるものであるし、肉体を持っているということは、自我(思考・感情・そのほか)が自動的に発生し続ける(ようにみえる)ということでもある。
これに、餌を与えない。
この「自動的に発生し続ける、もっともらしいようにみえるもの」に対して、動かさない、なんとかしようとしない。
できることは、ただ、ただ、よくみるだけ。
ただ、ただ、よくみる、ということを、ある程度してきたのであれば、
祈りによって、「ほんとうのほう」に委ねればよかった、ただ、それだけであった、ということになる。
「ほんとうのほう」というのは「自我以外」の方であるし。
本物は、永久であり不変、つまり、ずっとそこにあるし、変化しない。
こちら側は、なにもかもの力を抜く。
「どうしようもできない」というときほど、「ほんとうのほう」に、包まれていた。
動けないとき、どうしたらいいかわからないとき、もうなす術はない、というときは、
「その唯一の存在、唯一存在するもの」が、「任せなさい」と、人智を超えたところで、なにかをしてくれていたときでした。
唯一の存在。唯一の不変。
人々が、愛・神・創造主・法則と、ずっと、求めてきたもので。
求めるまでもなく、いつも共にいたもの。「自分も含めたすべての人々の同時の平和」を行うことが唯一可能であるところ。
それを感じなかったのは、そうじゃないほうが本物であると、思い込んでいたから。
本物は不変。偽物は移ろい、変わり、朽ち果てるもの。
どちらを見たいか、どちらに身をあずけていたいのか。
自分を愛する、という、その先では、それを自分に問いつづける。
答えは、出す必要はない。
出してもいいし、出てきてもいいのだけれども。
答えが出てきたと思ったところで、それもまた自我の主張であり、
自分自身のほんとうの答えというのは、本物と同じく、唯一不変として、自分自身の心臓の奥に、心の奥に、自分自身の魂の奥に、ずっとずっと、あるのだから。