最近、ある方から、スリ・ダヤ・マタ著『オンリー・ラブ −愛だけが−』という本を紹介していただいて、読んでいました。
その本の中で、みなさんともシェアしたいなと思う箇所があったので、一部引用して、紹介させていただきます。
迷いの元は、過ぎ去る夢でしかないこの世に、満足を求めようとすることにあります。この世は偽物です。私にははっきりとわかります。なぜ、記憶と忘却、生と死の波に、翻弄されているのですか?どうしてそのように自分を浪費しているのですか?何のために?人は捜し求めるすべてのものを神の内に見つけるでしょう。問題なのは、神を第一にすれば、他の一切のものは私たちに加えて与えられるという聖なる約束を、十分信頼していないことです。
(中略)
人生を過ごす上で、どんな種類の迷いや誘惑や試練に出会おうと、いつも、ちょっとこの言葉を思い出してみてください。
「神よ、私はあなたを最初に求めます。そうすれば他の全てが私に加えて与えられることを知っています。」この言葉を信じなさい。
あなたはまず信じることから始めるべきです。そうすれば最後には、もし神を探し続ければ、あなたはいつの日か突然に、「まあ!私は欲しかったものをすべて持っているようだわ。何も欠けるものなく。」というでしょう。
スリ・ダヤ・マタ著『オンリー・ラブ −愛だけが−』67ページより引用
・・・もう、まさにその通りです。神、というのは、内側にあります。
私も実践してきて、セッションやクラスなどでも分かち合ってきていること、お伝えさせていただいていることは、このことです!
2018年〜2022年まで書いていた旧ブログにも、これについて書いていました。この頃は「神」という言葉をほとんど使いませんでしたが・・・。
当時書いていた内容は、
あるとき、「昔、ふと願ったこと、憧れたこと、こうなったらいいのにな、こうなったら素敵だな」という、わたしの心の中で思っていたものが全部叶ってる、という体験談的な内容でした。
これは、わたし自身、これに気づいたときは驚きと感謝、まさに神、という大いなる存在を感じていたのですが、
これは、わたしだけにたまたま偶然起きたことではなくて、「そういうもの」なのです。
わたしたちは「出来事」「この人との関係性」「外側のこの世界のこのことについて」を、なんとかしたい、なんとかなってほしい、執着、と思うことがあります。
このことについて、自分を責めたり、恥ずかしい、と思う必要はないのです。そう感じられることもあるかもしれませんが、そういう問題でもない、という感じです。
それで、この「外側をどうにかしたい、こうなってほしい、こうならないでほしい」という思いを、
毎日「一旦脇に置く」ということを繰り返して、内側を見つめる、という心の練習(マインドトレーニング)が必要なのです。
そうして、内側、心と向き合っていくと、あるとき、出来事、関係性、この世界の何か、ということは、
おまけのようにして
喜びの体験・素晴らしい出来事として受け取る(奇跡)ということなのです。
あるクライアントさんが「グリコのおまけみたいに必ず何か受け取ります」とおっしゃっていましたが、もう、まさにそんな感じです。
「外側に求めるのを一切やめなければならない、ダメだ」とか、そういうことじゃないです。
世の中は、外側に求めたくなる誘惑で溢れています。
そうじゃなくて、どちらかというと「外側に求めたくなる自分を認めつつ、分かりつつ、でもこうじゃないんだよな、と何度も思い出しつつ、内側に求めていく(祈る)」という感じで、
これを深めていくと「なんでも内なる神に相談して、打ち明けて、求める(受け取る、受け入れると決める)」みたいな感じです。
わたしの体験としても、クライアントさん(セッションやクラスなど)も、
「内観を完璧にできて、完璧に浄化されていること」
「苦痛や執着や自己否定などが完全になくなっていること」
「一切外側に求めない境地になること」
を目指している、という意味じゃなくて、
ただ、自分に素直に、正直になって、わからないまま、祈っていく、ことを続けていく、だけで、
奇跡を受け取っていく、という感じなのです。
確かに、ある時点から「外側に求めることは意味がないな、人のせいにするのは自分の罪悪感の投影だ」ということが、すぐにわかるようになってくるので、
たとえ「人のせいにしたい気持ち」が出てきたとしても、そこに火に油を注ぐようなことをしたり、相手のせいだと思い込んで正当化したりするのではなく、
手放したい、とすぐに思い出して、祈って取り消してもらう、奇跡、癒しを受け取る、という感じになってきます。
問題なのは、神を第一にすれば、他の一切のものは私たちに加えて与えられるという聖なる約束を、十分信頼していないことです。
スリ・ダヤ・マタ著『オンリー・ラブ −愛だけが−』67ページより引用
もう、まさに、そう、です。
なので、今、これを十分に信じられない、あるいは、信じられるような信じられないような、という場合は、
「神を第一にすれば、他の一切のものは私たちに加えて与えられる」ということを、思い出したい、思い出しつづけたい、受け入れたい、信じたい、という意欲があるだけで十分なのです。
「聖なる約束」と書いてますが、この「聖なる」「神聖性」「聖性」というのが、具現化の力も左右してます。
「聖なる」が意識から抜けてると、具現力弱くて、これは結構重要事項だと思うのですが、「引き寄せ、願望成就、自己実現情報(?)」の間では、そこまで重要視されていないのかな?と思うことが、あったり、なかったり、します。
別に「家に神棚作りなさい」「神社仏閣巡りをしなければならない」という話をしたいわけではなくて(行動よりも前に「その心は」の方が大事です)
私たち全員の内側に、この神聖性というものがあって、それを認めることが自分を認めるということなのだということです。
人生を過ごす上で、どんな種類の迷いや誘惑や試練に出会おうと、いつも、ちょっとこの言葉を思い出してみてください。
「神よ、私はあなたを最初に求めます。そうすれば他の全てが私に加えて与えられることを知っています。」この言葉を信じなさい。
あなたはまず信じることから始めるべきです。そうすれば最後には、もし神を探し続ければ、あなたはいつの日か突然に、「まあ!私は欲しかったものをすべて持っているようだわ。何も欠けるものなく。」というでしょう。
スリ・ダヤ・マタ著『オンリー・ラブ −愛だけが−』67ページより引用
もう、これも、まさに、そう、です。
わたしも最初は不思議で仕方がなかったのですが、ほんとうに「こういうもの」なのですね。
「願望成就、具現化」と書くと、「外側の変化が目的」と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、そうではなくて、一番の目的は、神とひとつであると思い出すこと。
外側の変化や体験などは、おまけ、という認識は大切です。