蓋を開ける「最悪の想定・最高の想定」の話

以前、ブログに書いた、「最悪の想定を受け入れる」について。

ともかく、これについては、たくさんのお声を、いただいておりました。

 

 

最悪の想定それ自体を人生に受け入れましょう(※)とか、

「そのようになることを、わたしはわたしの人生に許可する」とかではなくて、

そう思ってることを受け入れる、という感じ、かな。「わたしは、そう思った」みたいな。

 

 

(※)しかし、わたしの場合は、「こい」、みたいな心境に、なったのですよ笑

なので、今日は、それについてのお話です。

 

 

なんだったっけ。

昔「経済不安というか恐怖」に、すごくすごく取り憑かれていたとき。

あのときは、まさにもう、憑依状態だったと、今ではよくわかるのですが、当時は、そういったものに興味を持ちながらも半信半疑が強かったので、ほんとうの意味での「学ぶ」ができていなかった。

ほんとうの意味での「学ぶ」というのは、癒されることでもあり、いかされることでもあるよなぁと、よく思うようになりました。

 

 

それで、経済恐怖に憑依されていたとき。

もう、頭の中で色々シミュレーションして、臓器を売り飛ばすしかない、くらいまで、考えたんでしたっけ。笑

あのときの、わたしの心境を、この間、あるクライアントさんとのセッションで、うまく話せた(?)ので、こちらにも、残しておきます。

 

 

質問を受けて、あのときの、わたしの心境は、いわゆる「願わくば我に七難八苦を与え給え」だった・・・と思い出したんですよ。

そのあとで「願わくば我に七難八苦を与え給え」とは、なんだったっけ、どこで知ったんだっけと、インターネットで調べてみると、

山中鹿介??武将なのですね・・・。

僧侶の言葉だと思い込んでいました。。。

 

 

それはさておき、わたしは、その頃、普通にお金もないし、だからカウンセリングなど受けるなどもできなかったので(無職だったし、対人恐怖症みたいな感じだったし、当時はわたしのせいで一家の財産食い潰して大変なことになったと本気で信じていたので・・・笑)

すごく一人でぐるぐるしていました。

それで、一番最悪の想定を、なんでだか、シミュレーションしていこうと思いついたんです。

普通は「考えるのもこわい」ものだし、わたしも途中までは考えないようにしていたのですが、

「おや?脳内のことだし?なぜ考えるのすらこわいんだ?」とでも思ったのか(正直うろ覚え)

あるのに、ないふりをするくらいなら、この「実はあるもの」を見てみようではないの、みたいな気持ちに、自然となったんです。

 

 

そんなこんなで「最悪の想定」を遠慮なく考えていくうちに、だんだん「願わくば我に七難八苦を与え給え」みたいになっていったんでした。

 

 

もしかしたら、オリジナルの山中鹿介?幸盛?氏の意味とは異なるかもしれませんが、

わたしが超えらる壁しか、人生に現れないだろう。だから「七難八苦」が現れたのなら、わたしはそれを超えられるということで、その素晴らしい景色を見てみたい。きっと素敵だろう、

みたいな清々しい心境になった、という感じでした。

まさに、蓋が外れた感じでしたし、それがそのあと外側に「大きな変化」のようにして展開されていったというか、運ばれ方というか、流れというかが突然のようにして変わっていったのは、いうまでもありません。

これは、わたしの体験談です。

 

 

それで、その後だったか、鏡で見るということをしていくうちに、陰陽表裏一体であるというのが浮かんで(わたしの場合は、映像でみえた感じです。今も映像みたいな感じ?でみる感覚があります)

その後、色々勉強していくうちに、エゴが、おそれベースで望むこと・期待すること=最高の想定のその裏には、最悪の想定が表裏一体としてあるので、

それをどちらも受け入れるというか手放すというか、するといいですよー、

ということを、学んで、答え合わせもしていけた、という感じです。

 

 

プラスマイナスの、プラスだけをみようとしていたのを、マイナスも受け入れたというか、

前回の記事で言うところの「カモメの声をカモメの声だと、ただ受け入れた」みたいな感じです。

それまでは、カモメの声をうっすら感じながらも「カモメの声を聞いたら現実化してしまうのがこわいから、聞かないようにしよう。考えないようにしよう」としていたのを、はっきり聞いてみた。そしたら、ただのカモメだったと、わかった、みたいな感じです。

 

逆パターンの場合も、やることは、同じです。

逆パターンというのは「こうなってほしい」と、最高の想定を願望している場合、ですよね。

これは、日常の些細なことから、みんなが願うようなことから、本気でお願いしますと言うようなことから、壮大なことまで、さまざまにあると思います。

これも、裏に「最悪の想定」がないかどうかをみてみます。

なので、最高の想定を持ち続けるということは、その裏にある最悪の想定だったりおそれだったり謝ったセルフイメージ(無価値観、自己否定感などの不要な思い込み)も持ち続けることになるので、手放します。

ここまでは、自分の願望であれば、です。

 

 

そもそもまず、自分の願望というよりかは「誰かの期待に応えるために」とか「外側基準、外側と比較して、みんながそうだといってるから、だからわたしも・・・」が混ざってる場合もあります。

このような場合。

わたしの場合、お金を稼ぐことで母を安心させたい、というのが混ざってたのです。この記事にも書きました(お金のお悩み・問題・願望のお話

母を黙らせたい、自由にさせてほしい、などと思っていた頃もあります・・・あの頃は、とんがりコーンだったなぁ。

このような場合は、まず、「苦しい感じ・焦る感じがしたときは、自分の思考体系ではなく、大好きな人の思考体系を使っている可能性を疑う」ということをして、本人を特定する、愛と感謝でお返しをする(意図する、みたいな感じかな)ということをします。

 

 

 

このように「お金を稼ぎたい、稼がなきゃ、経済不安」を、自分のものではないと気づいて、本人にお返しをしたからといって、手放したからといって、受け入れたからといって、

わたしがその後、お金とは無縁の一文なしになったかというと、全然そういうことにはなってないですよ。笑

苦しみや焦りが抜けてくれたという感じです。笑

なので、安心して、願望が自分のものではないかもしれない場合は、「わたしのものと人のものを分ける」ということをします。

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