わがままと自分の声を大切にすること。そして、自我の声と魂の声

わがまま、というのは、「自分が正しいと信じている価値観」をまわりにも押し付けて、まわりの人や状況をジャッジ・コントロールしようとするということ。

これをしてしまう人の多くは、「逆」を経験しています。

育った家庭環境、5歳未満の頃の環境、ですね。

そういった大人(多くは両親など)から、直接それをされてきた、という場合もあれば、両親が喧嘩をしていることを見てみた、という場合もあれば、第三者として、そういう話をよく聞いてきた、そんな場面を見てきた、ということもあるかもしれません。

なので「こんなことをいうのは、するのは、わがままなんじゃないか」という場合や、「誰かから振り回された経験がある、いろんな人で繰り返している」という場合は、まず、両親との関係を見つめていった方がいいです。

 

 

これを、よく見て終わりにしていく、ということを、する、というのが、内側の創造性とつながる、ということでもあるし、ほんとうの意味での心の自立だと思っています(物理的自立だけじゃない、心の自立)

 

 

この「価値観の押し付け」は、「その人だけの価値観」というよりも、「その人が正しいと信じている価値観」ということもあります。

なので、一見筋が通っているように、錯覚することがあります。

たとえば「学校に行かなければならない」という価値観を、親が子に押し付けているとします。

この「学校には行くべきである」というのは、日本では特に多くの人が信じている価値観でもあります。

最近では、不登校の子どもも増えてきたし、フリースクールなど学びの場の選択肢も増えてきたし、おおらかになってきているようですが、わたしが子どもの頃は(わたしは不登校児だった)、フリースクールなどもあったか、なかったか?くらいの感じで、即精神科へ、という感じでした。

なので「学校に行かない子ども」の方が「問題」となりやすいのですが、鏡で見る、ということは、「その姿が自分」という見方をしていきます。ここから、目を逸らさないこと、です。

そのように、親が子を「問題」と見ることで、子どもは、まるでどんどん問題を演じていくようにして、問題が膨れ上がっていくことがあります。

不登校だけではなく、「うちの子は発達障害なんじゃないかしら」という声もちらほら聞くのですが、もちろん医師に見てもらったところ発達障害で、服薬することで本人がとても楽になるのであれば、そうした方がいいとわたしは思うのですが、自分の問題を子どもに投影している、というケースもありました。

 

 

親の立場にしても、子どもの立場(大人でもみんな誰かの子ども)にしても、こういう話に気づいた側が、その連鎖を終わらせていくことができるのです。

このような家系の連鎖的な問題は、恋愛・結婚・経済・仕事・健康、などなど、どこでどう出るか、わからないです。なので、丁寧に、時間をかけて、向き合って、自分をゆるしていきたいところでもあります。

 

 

最近、わたしがよく考えていたことというか。よく浮かぶこと。

セッションで、クライアントさんが自分自身と向き合ってるとき、というのは、ほんとうに「そのままでいい」という練習だったり、ハイヤーセルフの声(これはとても優しいものです)を信じていくことだったりが、中心になることが多いです。

一方で、クライアントさんが自分自身と向き合っていない場合は、わたし(ringo)に、「わたし、間違ってないですよね?」「わたし、悪くないですよね?」みたいな感じでくることがあります。もちろん、直接的に「わたし、間違ってないですよね?」という言い回しをしなくても、それは、わかります。

この場合は、自分が自分の中に「正しさを押し付けてくる存在」「ジャッジ、コントロールする存在」を招き入れていないかどうか、まず、見つめてみてください。

そして、その「厳しくジャッジコントロールする存在、正しさを押し付けてくる存在」をよくみて、ゆるす、ということをします。これが、とても、重要です。

じゃないと、現実がうまくいく・いかない、に限らず、依存関係、支配非支配の関係を繰り返すことになることがあります。

ハイヤーの声は、あまりにも優しいですし、ハイヤーを通せば、どのような問題も、優しく、紐解かれていきます。これは、素晴らしく、優しく、紐解かれていきます。

 

 

その上で、自分の些細な声、自分の選択を、自分の感覚に従って、選んでいく。

自分が心地よい方を、ほんとうに、自分で選択していいんだ、というのが責任です。

自分が心地よくない方は、ほんとうに、自分で決めて、しなくていいんだ、というのが責任です。

これが、責任であり、自由である、ということです。

 

 

自我の声とスピリットの声、という聞き分けが、テーマということもあります。

※これは、もともとこれが見えやすい方もいらっしゃいますよね。

 

 

これはどのようなことかというと。

これが見えてくると、「自我がしたい、したくない」と言っていることと「スピリットの声」があべこべなのが、よく見えて、「自我はこのようにしたい」と言っていてもスピリットは、全く逆、ということです。

「自我はめんどくさい」と言っているけれども「スピリットはする」と言っている、とか。

「自我はいきたくない」と言っているけれども「スピリットはいく」と言っている、とか。

「自我は怖い、気持ち悪い、無理」と言っているけれども「スピリットはやる」と言っている、とか。

ここで、エゴをよく見る、ということをしていると、エゴの無意味さというか、価値のなさ、益のなさ、みたいなものが、よくわかるので、スピリットの声に従いやすくなります。

だって、エゴは、一見正当そうなことを言っていることがあったとしても、根底は「自分は価値のない存在である(裏)」「だから自分は価値のある存在になりたい、からの、価値のある存在である(表)」みたいなところで、ここをぐるぐるするのが目的なので。

読者さん、クライアントさんから「ブログに書いていることがよくわかんないけど、2018年からブログ読んでいます」という感想をいただくとき(笑)このことを、思い出します。

なんかよくわかんないけれども、続けている、ということが、わたしにもたくさんあった、あるから。

そして、この「なんかよくわからないけれども、そうしている」の「なんかよくわからない」あたりに、魂の導きというか、背後の応援の追い風というか、なんか、そのような感じを、感じることがあります。

ご予約受付中のセッション・クラス

4月のセッション受付状況

※(3月5日更新)3月のご案内が土日祝満席、平日残りわずかです。

4/6スタート!グループレッスン募集開始

  • URLをコピーしました!
目次