「絶対に届かない祈り方」というのがあります。
それで、もし、今から書く方法で「祈りが届いたことがある」という場合は、まぐれ、みたいな感じです。
「この祈り方だと絶対に届かない」という祈り方で「成功体験」みたいなものがある、という場合は、ある意味、おみくじで「凶」を引いたようなものです。
だって、自分の体験、しかも「成功体験」って、なかなか覆せないものだからです。
そして、これを覆すことができたなら、「凶は大吉へと転じる」となる・・みたいな感じです。
さて、「絶対に届かない祈り方」というのは、
ざっくり書くと「神様に対して、法則に対して、上から目線な感じ」です。
例えば・・「そんなにいうんだったら、叶えてみなさいよ」とか「幸せにしてくれるんでしょ、奇跡をよこしなさいよ」みたいな感じとか・・です。
この感じ(心の在り方)で、祈っても、それは抵抗ですし、
神様に対して祈ってることになってない、神に背を向けて壁に向かって祈ってるようなものなので、祈りが届かない、という感じです。
むしろ、壁に向かって放った「上から目線エネルギー」みたいなエネルギーは、すべて自分に返ってくるだけです。これは天罰とかじゃなくて、やまびこみたいな感じで、です。
山に向かってヤッホーと叫んだら、ヤッホーと返ってくるのは、天罰でもなんでもなく、ただのやまびこです。
・・というか、このブログなどを読んでいる方というのは、
「祈り」だったり「神様」だったり、そういうワードに触れることができている、
「祈り」だったり「神様」だったり、そういうワードに抵抗がほとんどない、あったとしても奇跡を求める気持ち、意欲の方が上回っている、ということだと思いますが、
その時点で、「そんなにいうんだったら、叶えてみなさいよ」とか「幸せにしてくれるんでしょ、奇跡をよこしなさいよ」みたいな感じの人は、かなり少ないのではないか?とも思うのですが。
他の現実創造、願望成就、具現化系のメソッドでは、この「法則に対して、上から目線な感じになってる」という場合も、めずらしくないことかもしれません(?)
ちなみに、他の現実創造、願望成就、具現化系のメソッドで「フラットな感じ」というのはあると思います。フラットな感じと上から目線な感じは、まったく異なりますが、例えば、グラウンディングできていなかったりすると、知らず知らずのうちに上から目線な感じになってる場合がよくあります。
そういうのもあって、わたしは、祈りが安全だし確実だし簡単だし自然と波長が美しく整っていくし、本当に素晴らしいと思っています。
さて。
「そんなにいうんだったら、叶えてみなさいよ」とか「幸せにしてくれるんでしょ、奇跡をよこしなさいよ」みたいな感じについてなのですが、これも、抵抗なのです。
わたしは、ある時期、↑こんなような気持ちになったことがあって(そんなふうにしか思えないような、負の感情に支配されてた)、でも、そう感じてしまう自分にも罪悪感を感じて、ぐるぐる巻き・・みたいになってたことがありました。
それで、大事なことって、「自責」の部分を癒してもらうことなのです。
エゴの考えに気づいたとき、わたしたちは罪悪感・自責・自己嫌悪などを感じることがあります。
例えば「嫉妬する自分を責める」とか「意地悪な考えを持つ自分を責める」とかです。
本当は、すでにこのエゴが自分じゃないことに気づいているからこそ、エゴイストな考えに対して責める、罪悪感を持つ気持ちがある、ということでもあります。
完全に、エゴと同一化していたり、あるいは「その考え」自体が本来の自分の思いだったら、違和感や罪悪感は持たないもの、です。
それで。
大事なことって「エゴを抹消すること」などではなくって、「エゴを責める、攻撃する、裁く感じ」の方なのです。
「エゴを責める、攻撃する、裁く感じ」がなければ、「ただ選び直す」「誤りを訂正する(日付を間違えてた、訂正するね、くらいの軽い感じでです)」となるのですが、それで良かった、ということです。
しかし、エゴと激しく同一化している場合、自分や他者を責めたり、罪悪感を持ったりしている場合というのは、
自分ではどう頑張っても自分をゆるしたり、解放したり、癒したりできませんので、自分の中にある完璧な愛の存在とつながる必要があるのです。(祈り)
なので、わたしが、神様に反抗期状態で、「そんなにいうんだったら、叶えてみなさいよ!」とか「幸せにしてくれるんでしょ!奇跡をよこしなさいよ!」みたいな気持ちが出てきて、罪悪感を感じていたときも、
すべてを素直に正直に白状して、神様に癒しを求めるしかありませんでした。笑