「自信がないんです」「うまくいくかどうか、うまくやれるかどうかわからない」「どうなるかわからない」「失敗するのが怖い」
というとき、どんな思いを持っているのかをよくみてみると、
・自分の力でやろうとする思い
・「正しいか間違いか」などジャッジメントの思い
が出てきます。
「自分の力」では、限界があります。
「自分の力でなんでもできる、そうするべきだ、そうしないといけない」と思っているとしたら、ちょっと立ち止まりたいものです。
「自分の力でなんでもできる、そうするべきだ、そうしないといけない」これが、もし「いいこと」のように聞こえる場合は、「自分の力でやっていると思っていることの傲慢さ」について、考えてみたいときです。
本当の謙虚さとは「自分はいろんな人たち、いろんな経験、そして、自分を超えた大きなものによって支えられている」ということを、よくわかっているときに、生まれるものです。
「正しいか間違いか」ということを考えはじめるのは、迷路の入り口に立つようなものです。
本当に間違いがないのは、「正しいか間違いか」ではなくて「自分の心が幸せかどうか?」を基準にすることです。
「誰かから見た自分」は一旦脇に置いて、「自分の心が、心から、嘘偽りなく、幸せを感じられるかどうか」を、いつも大切にしていること、です。
幸せというのは、決して外的な何かによってもたらされるものではありません。
心の中が先、外側はその反映、です。
心が、幸せを受け取ることを、両手を広げて楽しみに待っているから、そこに、ほしいと願ったものから思いもよらなかったものまで、幸せなものが反映されていきます。
本当は、自信がないとか、なくて、
本当は、自分の中にある、自分を超えた自分よりも大きな力によって、いつも守られていて、その完璧な愛は自分の完璧な幸せを大切に保ち続けてくれていて、その大いなる存在に自分は完全に養われていて、
そのことを認めること、受け入れること、思い出すことを、恐れているだけです。
「自分でなんとかしなくっちゃ、でも、どうしたらいいかわからない」と、頭がいっぱいのときは、「きっと神様もどうしたらいいのかわからないのだろう」と投影してしまいます。
人だけでなく、大いなる存在に対しても、なんに対しても、「自分ときっと同じだろう」と思ってしまうのが、投影です。
けれども、自分がどうしようもできないときでも、完璧な解決策とともに待ってくれているのが、神です。