進捗状況や近況報告(外的なことや内的なこと)

こんばんは。ringoです。

1ヶ月くらい前に「新しいホームページを作ります、本名で活動しようと思ってます」ということを書きました。

それで、ホームページは「枠」だけ作って(実はこれは数時間しかかかってない)、あとは作業はほとんど何もしていませんでした。(つまり、ホームページ的業務についてはほとんど何もしていないということです・・)

同時期、ブログ上で、有料モニターさんを募集したのですが、数時間(多分3時間とか?)で、予想以上のお申し込みをいただいた・・ということもあり、

ホームページの作成というよりかは、セッション、祈り、ヒーリング、マインドウォッチングな日々を送っていました。

 

 

「新しいホームページを作りたいと思います!」と、ブログ上で宣言をしておきながら、

ホームページの作業はほとんど進まず、「セッション、祈り、ヒーリング、マインドウォッチング」という、軸の軸の部分だけの日々になっていた・・みたいな笑

結果的に、そんな感じに、なっていました笑

セッションをするということは、わたしこそが、内観して、祈っていないと、話になりませんので(当然ですが・・)

なんというか、本当に、深く、妥協なく、導かれている感じがしています。

妥協なく、誤魔化しなく、「完全な幸せだけを、望みます」みたいな感じです。

本当に、本当に、ありがたい日々です。ありがとうございます。

 

 

ここまでは、外的な近況報告のお話です。

 

 

内的な近況報告としては・・。

上記のような流れの中で「点と点が結ばれる現象」を受け取り、

「今後の方向性の言語化、目的の言語化」にもつながるような感じがしています。

 

 

例えばですが、わたしは「本当の自分自身に戻る」とか「自分自身と向き合う」ということを2018年から目的としてきました。

ざっくり書くと、「自分の正直な思いをただ素直に認めていくこと」「本心と一致すること」・・ネガティブでもポジティブでも、このことに丁寧に繊細になっていくことで、さまざまなギフト、具体的な愛の体験を受け取ります。これはもう、本当に、そうでしかないです。

それで「そうならない」という場合は、何かがあるはず・・ということになります。

それで、今まで、わたしは「そうならない場合は、何かがあるはず」ということに、興味が向いていたのですよね。問題視じゃなくて、素朴な疑問というか、宝探し的な感覚、神のあらゆる側面を見たい、ということでもあったと言えます。

そして、その、わたしの中での「具体的な問い」の「具体的な答え」は、祈りによって、たくさん、受け取り続けてきて、わたし自身、すごく学んできたというか、洗い流されてきたというか、そういう感じです。

なので、本当に、クライアントさんや読者さんやすべての人々、その方たちの中の叡智に感謝なのです。

 

 

それで。

「本当の自分自身に戻る」とか「自分自身と向き合う」とか「本心と一致すること」とか

「魂と一致すること」とか「自分軸」とか

ありとあらゆるところで、発信され、伝えられてきていると思うのですが、

この「自分」にも「複数のレベル」がある、ということが、自分の中で、明確になってきました。

うーん。言葉が、層なのか、視座なのか、レベルなのか、迷ったのですが、とりあえず、レベルにしておきます。

 

 

そして、この、「自分」というところの定義やレベルみたいなものを、自分の中で認識するというか、はっきりするというか、それが大事なんだということです。

ジャッジしたり、優劣を感じたり、するのではなくて(笑)

ただ、色々あるんだ、ということを受け入れて、認識していく、という感じです。

 

 

これはどういうことかというと。

例えば、わたしは以前、心理学を学んでいました。

それで、心理学からは離れ、霊性について学ぶようになりました、「霊性について学ぶ」というのもなんか変ですが。「霊」というものと向き合うようになりました。

わたしにとって、この「霊」というのが「真の自己」でもあります。

※なので、スピリチュアルといっても、「幽霊」「生き霊」「悪霊」「高級霊」・・という感じとは全く別の話、という感じです。

それで、最近、すごく久しぶりに、昔読んでいた心理学の本を、ふと手に取ることがあったのです。

このときに、気づいたのですが、心理学や精神医学って、「個人レベルの話、人間レベルの話だったんだ」ということです。

なんかこうやって、文字にしてみると、そりゃそうだって感じがしなくもないですが笑

これに気づいたとき、衝撃的でした。

 

 

というのも、

「霊」というのが「真の自己(私)」・・というのは、全体性、全一性、一体性、ひとつ、一なる・・というようなことでもあります。

そして、法則性としての鏡の法則は、この一なる自己、一つの心としての私に再び目覚めるためのもの、みたいな感じなので、

心理学での投影や、人間レベルでの投影(いい人間になるための投影、鏡の法則、みたいな感じでしょうか・・)と、

「霊としての本当の自分自身に目覚める」という意味での投影は、全く話が違う、ということです。

いわゆる、ここが、混ぜるな危険の部分というか、10,000歩譲って、どうしても混ぜたいなら、分ける訓練をするか、違いを認識してみようというか、そんな感じです。

わたしは、混沌期、混ぜこぜたかったので、分ける訓練をしていました。たくさん失敗もして、火傷もしました。

あ、これは、「不幸自慢をしている」とか、「自分は戦いに勝ち抜いた勇敢な戦士であるのだ!」ということを言いたいのではなくて笑

このわたしの経験は、是非とも、光に捧げたい、という感じです。

 

 

それで、例えば、すでに、霊的レベルでの目覚めの段階にきていて、それに無自覚で、

「この世的な自分軸、この世的な自分の本心と一致する、人間的な意味で自分を大事にする」ということを、学び続けた場合、

あるいは、目的が曖昧な場合になっている場合、

おそらく、なんか違和感というか、そういうものを感じることもあるかもしれません。

わたしがそうだったのですよ。特に心理学を学んでいた時期です。

これも「心理学を学んでいたのが間違いだった」とかじゃなくて、

自分の中で、目的が明確になっていなかった、無意識だった、曖昧だった、

「自分とは何なのか」という問いが幼少期からあったにも関わらず、その心からの問いかけを、あまりにも雑に扱いすぎていた、

ということです。

 

 

これを書きながら、昔「曖昧」というワードが、「自分の悩み、自分の考え」の中に、たくさん出てきたことを、思い出しました。

曖昧な関係とか。曖昧な人とか。自分が書き出したものを見て、なんか曖昧だな〜、と思う、とか。

 

 

それはさておき。

この「自分とは何なのか?」というところや、目的というところを、これからは、すごく大事に、明確にしていきたい、ということです。

そして、この問いを「外に問いかけて外に答えてもらおうとする」のではなく「内に問いかける」ということを大事にしていきたい。つまり、祈りです。

 

 

何でも、そうですが、「問い」ってすごく大事です。

問いというのはそのほとんどがエゴですが、この問いの中には「神にしか答えられない問い」というのが、あるのです。

神にしか答えられない問いを、答えがわからないまま、持ち続けていると。

あるいは、祈りによって、問うと。

あるとき必ず「答え」を受け取るのです。

あるとき必ず「運命の出会い」があるのです。

その「運命の出会い」というのは、現象的な、外側的な、出会い、ということもあるでしょうし、

「その、問いは、すでに答えられていたという内側での出会い」かもしれません。

どちらも、あるかもしれません。

 

 

わたしの場合は、

人との「運命の出会い」もそうなのですが、

「鏡の法則」も「運命の出会い」でした。

鏡の法則に出会ったとき、直感的にこれしかないと思いましたし、これですべて答えを受け取れる、という感じがして、

「心やスピリチュアルジプシー」に終止符を打って、

今に至る・・という感じです。

それは「鏡の法則」ということも、そうかもしれませんが、それより重要なのは、

「私が、自分とは何なのかと、問いかけ続けたことの答え」でもあったと思います。

なので、さっき、

自分の中で、目的が明確になっていなかった、無意識だった、曖昧だった、

「自分とは何なのか」という問いが幼少期からあったにも関わらず、その心からの問いかけを、あまりにも雑に扱いすぎていた、

ということです。

と書いたばかりですが、

運命の出会いによって「雑に扱いすぎてた過去」さえも、祝福されたというか・・

そんな感じです。

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