被害者なのに、被害者と言えなかった、
「傷ついた」
「つらかった」
「こわかった」
「あんなひどい目にあった」
と、言っていい場面、というのが、遠い昔に、あったのに。
それを、言えなかった人、というのがいる。
「言えなかった理由」というのは、人それぞれでしょう。
まだ、言葉を喋れなかったのかもしれないし。
その出来事に対する理解が追いつかなかったのかもしれない。
反射的に、「大丈夫な感じ」で、振る舞ったということもあるかもしれない。
または「こわかった」と泣き叫んでいたのに、さらに、冷ややかな現実が覆い被さった、ということも、あるかもしれない。そして、そのあと、それを、小さなからだで、たったひとりで、胸の奥にしまわないと、いけなかったのかもしれない。
記憶には、あったとしても、なかったとしても、
「誰にもぶつけられない、だって、仕方のないことだから」
「みんな、わたしの愛する人だから、わたしは悲しんでいられない」
「こんなことをいったら、ママも、パパも、わたしのことを、嫌いになるかもしれない」
「ママや、パパを、悲しませてはいけない」
と思った、ということも、あるでしょう。あの、小さな、小さな、からだで。
あの出来事の前までは、なにも考えずに、無邪気に、天真爛漫で、いることができたという人も、そうではないと思える場合も。
「なぜ、あんな目に遭わないと、いけなかったのか?そして、その出来事が、なぜ、今の今まで、ついて回るのか?そうじゃない人もいるだろうのに」
と、考えるのだけど、答えはない。
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「傷ついた」
「つらかった」
「こわかった」
「あんなひどい目にあった」
と、言っていい場面で、それを言えなかった。それさえも、分からなかった。
そういうとき、その被害者、という自分を隠して、加害者になる、ということがある。
こういう場合、強い罪悪感がずっとついてくることもあるかもしれないし、
「やっちゃいけないことをやってしまう」「やめたほうがいいのにやめられない」ということもあるかもしれない。
そばにいる人が、いつも、自分を責めてくる、自分のせいにしてくる、ということもあるかもしれない。
定期的にやってくる「あの時期」には、いつも「すべて自分が悪くて、みんなに迷惑をかけたし、どう考えても取り返しはつかないし、そもそもわたしはきたない、けがれた、人間なので、この世からいなくなることでしか、お詫びはできない」と、いう考えが襲ってくる、ということもあるかもしれない。
恐れを外に投影して、罪な自分を確かめる。
あのとき、消化できなかったなにかは、「怒り、恨み、憎悪」のような、感覚として、残ることがある。
攻撃的なその感覚が、ずっと、自分のなかから消えないようで、普段は自分を攻撃しているのだけれど、
「タイミング」がくると、その攻撃性は、相手に向かってしまう。
その「タイミング」とは、チャンスのときだったり、愛する人に対してだったり、する。
いつも「ここぞ」というときに。
いつも「一番愛する人」の前で。
なぜなら、攻撃性という分離は、必ず、愛と逆方向に連れて行こうとするから。分離視点とはそういう性質なのです。
ここでまた、抑圧をしてしまうという場合も、あるのでしょう。でも、抑圧が世界を狂わせているし、分離していることには変わりがありません。
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被害者なのに被害者(傷ついた、酷い目にあった、怖い目にあった)と言えなかった人は、被害者の自分と加害者の自分、恐怖と罪悪感を、すべて、一発で、なかったことになる、という道が、選択肢としてある。
その「道」というのが「たったひとつの愛」というところで、
分離とは、真逆、というか、分離とは決して交わらないところにある。
わたしがよく「神」というのはこの「すべてはたったひとつの愛である」というところです。
なぜ、この道なのか?なぜ、神なのか?なぜ、たったひとつの愛、全=ひとつ、なのか?
なぜ、祈りなのか?
それはもしかしたら、
「なぜ、あんな目に遭わないと、いけなかったのか?そして、その出来事が、なぜ、今の今まで、ついて回るのか?そうじゃない人もいるだろうのに」
という、ずっと、問うてきた答えなのかもしれない。