誰かを守るために誰かを攻撃する

この世界はたくさんの物語(シンボル)で溢れている。

悪と戦い、善を守る、ヒーローの物語。

悪魔から、お姫様を、守る、王子様の物語。

悪党どもの罠から目を醒ませ、真実に目覚めよ、それがみんなのためである、という物語。

「そんなひどいことされたの、なんて悪いやつなの。かわいそうに。大変だったね。よく頑張ったね」という、いつまで経っても出れないような、真冬の朝の布団のなかの物語。

外側にみる、こういった話のすべては「シンボル」である。内側に隠し持っている罪悪感のシンボルである。

わたしたちのエゴは、そういう物語のように、なにかを否定してなにかを肯定する、ということを、強く推奨してくる。

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「心のそこから、何の嘘偽りもなく、満たされた幸せな自由な人生を選びたい、そんな心で愛の関係性を体験したい」と望む場合は・・・

「誰かを攻撃し、わたしを守ってくれる王子様」にちょっと憧れるような気持ち。

「誰かを攻撃し、あなたを守りたいのよ」という正義感。

まず、こような無意識的な反応を、自覚する必要がある。

そして、その次に、これは、自分も相手も地獄に連れていくものである、と知る必要がある。

ここで「そんな自分をなんとかしなきゃ」とか「つい無意識的にそんなふうに反応してしまう自分を責める」とする必要は、一切ない。

「肉体こそが自分そのものである、自分は欠けていて、満たされていなくて、本当の自分は、罪深く、そして、恥ずかしい人間なので、それが誰にもバレないように、いつも緊張して注意しているように」と、根拠なく押し付けてくるのがエゴであり、このエゴが「なんとかしなくっちゃ」とか「無力感」とか「こんな自分はダメだ」という、悪夢を歌っているだけである。それを信仰している状態=自責、自罰、自己批判、さみしさ、無力感、です。

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「誰かを攻撃し、わたしを守ってくれる王子様」にちょっと憧れるような気持ち。

これは、童話の世界では「そのあとお城で幸せに暮らしましたとさ」となったり「さらに新しい敵が出てきました」という続編が出ることになる。

「誰かを攻撃し、わたしを守ってくれる王子様」これは実際ではどうなるかというと。

その王子様は、あるとき、わたしの大事な友達や大事な家族やわたしの趣味を、攻撃してくるかもしれない。あるいは、自分の勤務先の上司を攻撃して仕事をやめてしまうかもしれない。そして、あなたは、そんな王子様を攻撃したくなるかもしれない。

「誰かを攻撃し、”あなた”を守りたいのよ」という思いは、実際ではどうなるか。

こういう思いを無意識的に持っていると、いつか必ず、「その”あなた”」を攻撃したくなる。いや、もしかしたら、本人はそれを「攻撃している」と自覚していないのかもしれない、そういうものである。

なんでもそうですが「自覚していない、無自覚である」から、あるとき「なぜ自分の人生はこんなふうなんだ?」となる。

まずは、自覚することが重要である。無自覚を自覚にするのが、自分が自分の素直な正直な声を、どんな声も、丁寧に丁寧に聞いていくことや、鏡だったりします。

あるいは、「そういうことも、あるかもしれない(そんな自分がいる可能性をゼロにしない)」だけでも、十分である。

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「心のそこから、何の嘘偽りもなく、満たされた幸せな自由な人生を選びたい、そんな心で愛の関係性を体験したい」と望む場合は・・・

「誰かを攻撃し、わたしを守ってくれる王子様」にちょっと憧れるような気持ち。

「誰かを攻撃し、あなたを守りたいのよ」という正義感。

まず、こような無意識的な反応を、自覚する必要がある。最初は、「そういうことも、あるかもしれない(そんな自分がいる可能性をゼロにしない)」だけでも、十分である。

そして、その次に、これは、自分も相手も地獄に連れていくものである、と知る必要がある。

誰かを攻撃するときの、自分が感じている痛みを自覚することは、とても大切なことです。

自覚しないものは、無意識に再生し続けるだけです。無意識下で、いつも、誰かを怯えていて、いつも、無力な自分に震えていて、いつも、そんな自分を罪だ恥だと、思い込み続けることになる。

ここで忘れないでほしいのは、肉体を持っているということは、エゴがあるということであり、エゴの思考システムというのは、誰でも枠組みというかベースというか、そういうところが同じなのです。

なんの問題もなさそうに見える人、というのは、隠し上手であることがほとんどなのです。

隠せば隠すほど、それは雰囲気・エネルギーとして強く働き、苦しい状況を引き寄せる。

(その隠すことをやめる一歩が、内観だったり、鏡だったりするのです)

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一方を攻撃することで、一方を守る。

一方を肯定し、一方を否定する。

それを自覚して、これにもう意味がない・これをしていることで自分が自分を苦しめてきたことを自覚して、それをもうやめたい、と思う。

これだけでも、何割か、心は軽くなる、あるいは、何割か、状況はよくなる(本当はこの両方)

それでも、自分ではどうしようもできない「残ったもの」というのがある。

自分ではどうしようもできない「残ったもの」に苦悩したとき、その先になにがあるか?というと。

自分ではどうしようもできない、今までがんばってきたけど、もうどうしたらいいかわからない、そしてもう誰も助けてくれない、というとき。

人は祈る。一心に「目に見えないなにか」に助けて、と思う。

一心に「目に見えないなにか」に助けて、と思ったとき、心の中にある、誰の無意識にも必ずある、「神の記憶」につながることになる。

「神の記憶」というのは、言い換えると、ハイヤーセルフといってもいいのかもしれない。名前はなんでもいい。

「無意識や潜在意識そのもの」というよりか、無意識や潜在意識のなかに残る神の記憶、というのが、わたしの感覚的には、しっくりきています。

この、自分の心の奥の奥に必ずある、誰のなかにも必ずある、神の記憶、ハイヤーセルフに、助けを求めると、ほんとうに助かる。

もしかしたら、あるときは、その「助け方」というのが、あまりにも自然で優しいので、それと気づかないかもしれない。

助けて!と思っているのに、どんどん状況が悪化するような気がしたり、なにも変わらないような気がしても、大丈夫、よくあることなのです。そして、そのあと、必ずよくなる。

これを、自分の意思で「必ずよくなるらしい、必ずよくなると信じたい、信じる」というのが、非常に重要。これがないとまた、「復讐劇」だったり「やっぱりなにもかわらなかった」だったり「一時的な逃避」を繰り返すことになるので。

この、自分の心の奥の奥に必ずある、誰のなかにも必ずある、神の記憶、ハイヤーセルフに、助けを求めると、ほんとうに助かる。

もし、今、一人の時間がたくさんある、という場合。

この、心の奥とつながる、チャンスです。エゴではなく、心の奥とつながるチャンスです。

エゴは、いつも目の前ににんじんをぶら下げて破壊にしかつれていく、みたいなことをしたり、大事なことから目をそらすことに必死です。これが、さみしさや恥や罪悪感や無力感などの原因です。

でも、自分の心の奥の奥の神の記憶とつながると。

あまりにも、自然な形で、人とのつながりや何かとのつながりを、愛のつながりとして体験するようになる。

自分と自分(の心の奥の神の記憶)や、自分と神がつながることになる。これは、愛でしかないので、この内側が自然と外側の世界に映し出されることになる。

すると、自然と、すべて、攻撃したいものとか、攻撃から守りたいものなどが、なぜか、なくなる。

そういう関係性は、自分が、作り出していた、ということを実感したとき、エゴの愚かさに気づいたとき、そんな自分をただみつめたとき、人って笑うものです。恥ずかしいとか罪とかじゃなくて、「(笑)」ってなるもんなんです。

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