12月〜年明けくらいまで「痛み」がきてました。
しびれ、ヒリヒリ感、圧迫感、苦しさ。
これが、波のように、押し寄せては引き、押し寄せては引き。
「痛み」というのは、もう、「エゴ」「分離」「エゴのドラマ」「エゴのストーリー」を、あの手この手で、どんどん、持ってくる!「思い込み」「呪い」「自己催眠」なども同じです。
これによって「これはもう、自分の判断だけでは、どうにもできません、ほんとうにほんとうに、自分はもうでーきーまーせーん!!どうにもしようとしません!!あなた(神)に明け渡すのみです」という収穫がありました(笑)前も同じことを書いた気がするし、たぶん、もう、これが、たどり着いた先だと思いました。
そして「ハート」は、やはり、不変であり、不滅であり、永久なのだということでした。
ハート。うちなる神。自分自身の内側の奥の奥にある愛。
ここで、内側とつながる、心とつながる、魂とつながる、祈る・・・ということになるのです。
ある時点では、この「ハートとつながるとか魂とつながるとか祈るとか、やってどんな意味があるの?」って感じになりますが、
もう、これしかない。
「自分」「我」「エゴ」これはもう、個人レベル、分離レベルで、これを、超えたもの、しかも不変であり、不滅であり、たったひとつのもの。
これがあれば、ほんとうにややこしく考えずにすむ。
ややこしく考えるときは「下手な考え休むに似たり」だったらまだいい方で、ほとんどの場合「選ばないほうがいいほう」を選んでしまう。
だからもう「自分の内側の奥の奥の愛」につながることが、ほんとうに、大事。
「痛み」があるときほど、祈りのときでした、というお話。
いろいろと「(現実的スピリチュアル的)対処療法」をやりつくした結果の話です。
でも、興味深いことに、「自分の内側の奥の奥の愛」につながって、すべてのエゴ、幻想、痛みを、認めて、受け入れて、浮かべていくことを続けていくと、
いろんなものがどんどんありがたいものだった・・・と見えてくる。過不足への固着から、自由が見えてくる。
なんというか、10代の頃は大人のことも学校のことも社会のことも否定して反抗期してたけど、大人になって、仕事して、結婚して、だんだんと平和だったり、人とのつながりの愛だったりに触れていく中で、昔のことも笑って話せるようになる、みたいな。
過去も未来も、「今」によって、いくらでも、変わる。
世界が、ほんとうに、やさしくなるし、優しくみえる。
つながってる感じだったり、信頼感というかだったり、その「法則」みたいなもののエネルギーがほんとうに、よく見えるようになる。
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そうそう。
過去も未来も、「今」によって、いくらでも、変わる。なぜなら、過去も未来も時間も、そういう「拘束、束縛、制限」というものがない、それを超えたところというか、それを、わたしたちは、全員それを、「すでに知っている」ものなのです。
これは頭で理解する話ではないし、ほんとうは、文章でこうやって文字にするようなことでもないのでしょう。
でも「焦り」とか「未来への不安」とか「思い出しむかつき、思い出し恥ずかしい」とか、過去とか未来とかをベースに考えちゃう場合は、過去も未来も時間も関係ないらしいぞ、ということを、
「知識として」でOKなので「強み」になると思います。「知識として」そして「わからないまま」でハナマルです。
ある意味、「同じことの繰り返し」である秘訣が、「過去」や「(過去をベースとした)未来」という思考の枠のなかにいること、なのです。
これはもう、無意識・無自覚レベル、エンパスさんなどはもう「もはやどうすりゃいいんだ」と何度も何度もなる方もいらっしゃいます。
わたしが、これでした。
そして、「祈り」でした。
「自分が自分の声を聞くこと」「鏡」はもう習慣で、それでも、エネルギー的に、痛い、みたいなとき。祈りは、やっぱ、すごいなぁ、と思いました。
祈りや瞑想も、
目に見えない、ビッグバン以前、物理次元以前でたったひとつ。これを超えた、人智では理解不能な完璧な愛でしかない神、あの美しい大自然や恵みを見たときに昔の人々が「神」と呼んだなにかに、ただ、ただ、なんどもなんども、つながっていく。
いろんな「神話」「メソッド」「教え」も、「インスピレーション次第」。
インスピレーションというのは、わたしたち全員の無意識に残る「神の子としての記憶」。
インスピレーションというのも、御神託というのも、もうね、ほんとうに、大それたこととかでもなんでもない。
「できないふり」も「できるふり」も同じことで、もしかしたら、なかなかうまくいかないとか、とても苦しいという場合は、「大きな愛を受け取る自信がないと言い張ってるだけ」かもしれないと、
何度も何度も、ここ数ヶ月、浮かんでは消え、浮かんでは消え、していました。