「承認欲求」と「自分で自分を認めるってどんな感じ?」について

心理学者マズローによると、承認欲求には2種類(低いレベルと高いレベル)あるとされています。

 

 

低いレベルの承認欲求:他者からの評価を得ることによって満たされる

(例)他者からの尊敬、地位、名声、利権、注目を得ることによって満たされる

 

 

高いレベルの承認欲求:他者からの評価よりも、自分の評価が重視されている

(例)自己尊重感、自己信頼感、自立性。技術や能力の習得など。

 

 

恋愛、結婚、人間関係、経済(お金)、容姿、生きづらさ、家族や身近な人が問題行動を起こす・・等々、悩みや問題、「なかなか叶わない執着になってしまった願望」がある場合に、内観していくと「低いレベルの承認欲求を持っていた」ということは、めずらしくないことです。

「低いレベルの承認欲求があるんだけれども、それを自分で自分に禁止していたり、まったくの無自覚だったりする」ということが、ほとんどです。

「低いレベルの承認欲求の何が悪いのか理解ができない(これを抵抗といいます)」という場合もあるかもしれません。

 

 

まず、低いレベルの承認欲求に無自覚の場合。

無自覚、ということは、「自分が、その無自覚の欲求や信念などに、振り回されている状態」みたいな感じになるので、その悩みや問題やなかなか叶わない願いに対して「まるでお手上げ状態」「これだけ努力してきたのに全く歯がたたない」と感じられたりします。(これは低いレベルの承認欲求に限らず、です)

無自覚だったものを自覚できるようになる(無意識を意識に上げる)ことによって、「自分にとってメリットがないどころか苦痛しかもたらさない信念、思い込み、固定観念などを手放したいと望む」ことができるのです。

そして、この「手放したいと心から望む、手放すという決断」によって、奇跡を受け取ることになります。

 

 

次に、低いレベルの承認欲求を自分で自分に禁止しているとか、裁いている、という場合。

「低いレベルの承認欲求を持っていることは自覚していて、手放したいと思ってるんだけど、手放せない」という場合は「自分でなんとかしようとしているとき、エゴと闘っている」ということが考えられます。

セッションでは、抵抗のときどうするか(どうするかといっても、行動ではなくて心の在り方です)についてお伝えしたり、一緒に祈ったりしています。

祈る、ということは、「自分でなんとかしようとしません」ということでもあります。

そうこうしているうちに、これは「一つの例」ですが、裁くことなくただ見るときがやってきて、「他者から認めてほしいという欲求」と自分の間に距離ができて、「あれ?なんで他者に自分を認めさせようなんて、おかしなことしてたんだっけ?笑」みたいな感じになって(笑)、低いレベルの承認欲求を手放す・・ということがあります。

自然と気にならなくなる、ということもあるかもしれません。

 

 

それで、じゃあ「高いレベルの承認欲求って、どんな感じなんだ?」ということについて、今日は、書きたいと思ったことがあったので、ブログを書きます(やっと本題)

マズロー先生によると「高いレベルの承認欲求とは、自己尊重感、自己信頼感、自立性。技術や能力の習得など。他者よりも自分の評価が重視される」とあります。

これで「そうか〜!(完全なる解放感)」となるなら、それでいいかもしれませんが、「え?どういうこと?」となる場合もあるかもしれません。

「え?どういうこと?」

自己尊重感、自己信頼感って何?」「自立性って何?一人暮らししろってこと?」「技術や能力の習得ってあるけど、資格をとれってこと?」「習得したいものがわからない、やる気がない、自信がない」

・・みたいになるとか・・。

 

 

それで、ここからは、一般的な心理学のお話ではなくて、「心にすべての力がある」とか「奇跡」というところでのお話なのですが・・

「一番重要なのは行動ではない」ということです。

行動も大事といえば大事ですが、「何よりも重要なものである」とか「行動がすべてである」と考えてしまうと、苦しくなる、という場合もあるのです。

ここで重視していきたいのは、「行動」の方ではなくて「心の在り方、心の向き」です。

 

 

これはどういうことかというと。

例えば、「技術や能力の習得が大事だから、習得しに行ってみよう」というの知ったときに、

Aさん:「習得しに学びに行って、技術や能力を習得できて、心が満たされて、自信もできて、自分で自分を認められるようになった」

という場合と、

Bさん:「習得しに学びに行って、技術や能力を習得できたけど、それでもやっぱりなんか足りない、しっくりこない、このままじゃダメな感じがするので、さらに技術や能力を習得しにいくことにした(これを繰り返す)」

という場合があるのです。

なので、Aさんにとっては「思い切って行動してみて、よかった!」ということになりますが、Bさんにとっては「努力した(行動に移した)のになぜ?」ということになります。

Aさんにとっては「自分自身の内なる感覚を信じること、サインを受け取ること(それが行動なら行動してみること)」が大事だったといえるかもしれませんが、

Bさんに必要なのは・・本来の自分自身と出会うことなのです・・!笑

※本当は「Bさんに必要なのは、神なのです・・!」と書こうとしましたが、やめときました笑

 

 

それはさておき。「高いレベルの承認欲求って、どんな感じなんだ?」について。(今度こそ本題)

セッションや、グループレッスンの回数を重ねていく中で、

「(最初は、絶対にあの人のことを許せない、許したくもないと思っていた方が)あの人のことを、今も許せないけど、許したいと思えるようになりました。そう思えるようになったことが、嬉しいです」

だったり、

「飲みに誘われたら断れずに、疲れていても必ず飲みに行ってたんですけど、お酒も夜更かしもしんどくて。あるとき、もう自分をいじめたくない、自分を大切にしたいって自然と思えて、断れたんです。そのことが、とても嬉しかったです」

だったり、

「この間、同僚が失敗してそのフォローをすることになったんですが、そのとき自然と、同僚に対して大丈夫?という思いが湧いてきたんです。前だったら、同僚のせいで自分まで大変な思いをすることになったと、すごくイライラしてたと思うんです。だから、そんなふうに思えた自分が嬉しくて」

だったり。

こんな感じで、「こう思えるようになった、自分が、嬉しい」と、報告してくださることがあります。

これって、まさに「自分が自分を認める(高いレベルの承認欲求が満たされている状態)」ということだよなぁ、と思うのです。

 

 

共通点を言葉にしてみると「自分が自分の中に、愛情だったり、思いやりだったり、優しさだったり、そういったものを見つけることができて、感じることができて、それが、嬉しい」ということだと思うのです。

この「自分が自分の中にある、愛だったり、優しさだったり」というのが、ここでいう「内なる神、神聖性」でもあるのです。

この「愛、愛情」というのは、純粋に滲み出るもので、自分が犠牲になったり、見返りがないからと腹が立ったりする類のものではないのです。

 

 

具体的な状況は違えど、こんなふうに、ある日自然と「こう思えるようになった自分が嬉しい」と思った、という経験、あなたにも、ありませんか?

そしたら、それは、「高いレベルの承認欲求が満たされている(自分が自分を認める、評価できる)」という状態かもしれなくて、

これって、とっても、大事なことで、

本当の意味で、自分を認める、自分を愛する(真の自己を認める、真の自己を愛する)ということだと、思います。

もし、こんなふうに、思った自分に気づくことができたら、それって、小さいことのように見えたとしても「とても大きなこと」です。

「小さなこと」の中にこそ壮大さがあるからです。

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