神にゆだねる、とか。
宇宙におまかせする、とか。
ゆだねるとか、おまかせするとか、よくありますけれども。
このように、言うのは簡単で、ほんとうにゆだねるんだったら、
「ゆだねる気が全然ない自分」に、気づくはず、というか、これを自覚して、ゆるして、訂正を求める・・ということが、ほんとうにゆだねたい、ということ、奇跡を求めるということ。
例えば、現実が変わらない、とか、
ひさしぶりに会ったけど、全然変わってなかった、とか、
期待外れ、がっかり、とか、
今度こそ、と思ったのに、できなかった(自己否定)、とか
そういうことを言いたくなるとき、
外側を、世界を、相手を、変えたい、というコントロール欲求があったということを、
正当化せず、開き直らず、認める、ということをしなければ、
本当の意味で、ゆだねる、
ゆだねた上で、導き、ガイダンスを求める、
ということが、不可能。
悪いとか、ダメなこととか、恥ずかしいこととかじゃなくて、
ただ、不可能。
コントロール欲求を、よーく見て、ゆるしていかないと、「ゆだねる」ということが、できっこない。
できっこないのに、ゆだねます、といって、
わくわくに従う、ときめきに従う、といっても、
エゴは「裏に苦痛をへばりつけた、わくわくに似たもの、ときめきに似たもの」というのを、使います。
それで、内観つづけていると、こういうことに気づいてくるのですが、
それを、ゆるしていく(ゆるしていく、というのも、なんか変な感じがしますが、なんか変な感じがするにこだわってたら何も喋れなくなるので、ゆるしていく、と書きます)
そうしていくと、ほんとうに、何もわからない、とか、
自分の感覚が信じられないとか、
自分の中にある力、神聖性、愛が信じられないとか、
そういうのが出てきて、
そうして、さらに祈っていって、
「一人じゃ何もできない」というところに、戻る。
それで「一人じゃ何もできない」と、赤ちゃんのように人任せだった時期を思い出す。
注:全然かわいくない、傲慢な大人の赤ちゃん笑
それで、今度は、人任せじゃなくて、神任せ・・なのかもしれないとおもう。
神任せというか「すでに神にまかせるほかに選択肢がなかったこと、すでに神に全面的に依存しかしていなかったことを、認める、認め続ける」みたいな感じ。
それで、人じゃなくて、その人の中にある神聖性にだけ、とことん、耳を澄ませていきたい。
その人の中にある神聖性だけを見たい。
そう願い続けています。
「豊かさとはこれのことだよ」という声が聞こえます。
もう毎日といっていいほど、自分のコントロール欲求に気づき、ささげつづけています。
すると、何度も「すでにゆだねたんだった」と、深い深い安心感と共に、思い出されます。