さみしさ・孤独感を深める「書」に知らず知らずのうちにしがみついていたとしたら

「察する」「リーディング」「以心伝心」

についてのブログを書いてみて、なんだか、自分が整理された感がありました。

なので、もうちょっと。

 

 

「察する」について。

「察する側」と「察してもらう、察してほしい側」というのがあった場合。

ここには「暗黙の了解」が必要なのです。

ここで「暗黙の了解」となるのが、具体的に言葉にするとするなら、「ルール、常識、固定観念、価値観、普通に考えてこうでしょ、こうすべき・すべきではない、これはこういうものだ」というものがあります。

あまり具体的な言葉にしないとするなら「この空間においての空気感」みたいな感じかな。

例えば「相手が腕時計褒めてきた、帰れということだな?」みたいな?

それで、もし仮に「帰って」という「察して」が裏にあったとして、腕時計褒めてもらった側が、その隠された「察してね」に気づかずに、いつまでも長居し続けていたら、

「察しますよね?側」は「空気読めよ」「普通だったらわかるでしょ」という苛立ちや怒りが出てくるかもしれない。

というか、なぜ「そろそろ次の用事があるので帰ってください」と言わなかったんだろう?やはり何かを察してのことだったのだろうか。

もちろん、ただ、腕時計素敵、と思っただけかもしれない。それはわからない。

 

 

「ルール、常識、固定観念、価値観、普通に考えてこうでしょ、こうすべき・すべきではない、これはこういうものだ」、略して、「わたしの世界の法則」としましょう。

この「わたしの世界の法則」というのは、国によって・地域によって・家庭によって・時代によって・文化によって・流派や宗派によって・先生によって・専門家によって・「大きいママ(祖母・曽祖母・・)」によって、

同じだったり、違ったり、するところが、どちらもあると思います。

なので「世界の法則」ではなくて「わたしの世界の法則」にしてみた、という感じです。

 

 

例えば「ママ」が「赤ちゃん」を育てているとき、というのも、「わたしの世界の法則」が軸になります、というか、ある角度からすると「わたしの世界の法則を軸にするべき」という感じでもあるのかも、しれません。

「ママは赤ちゃんを育てて、危険から守るのがお仕事」みたいなところもありますし、そうやって、育てて、危険から守る上で、なんらかの軸というか、土台というか、手引きというか、そういうものがあってほしい、ということは、「人として」当然のことです。

※このブログにおいての「人として」と「本来の自分自身として」は、意味が、全く、違います。

 

 

それで「赤ちゃん」が大人になっていく中で、いろんな人と関わって、察したり察してもらったりすることもある中で。

この、ママからの「わたしの世界の法則」が「この法則は、わたしの世界の法則であって、みんなの法則ではないようだ・・?」となる場合があります。

「この法則は、わたしの世界の法則であって、みんなの法則ではないようだ・・?」と気づくとき、というのは、もしかしたら、寂しさ、孤独感、理解してもらえない、わかってもらえない感じ、そういった摩擦や葛藤、深い悲しみ、絶望があるときなのかもしれない。

 

 

そうして、あるとき、この「わたしの世界の法則」が、痛みや涙と共に流れていく。

恥だったり、屈辱感だったり、無価値感だったり、世界でたった一人取り残されたような感じだったり、いろんな苦しい感情が出てくるのかもしれない。

それでも時は流れて、「昔赤ちゃんだった大人」も、素敵な人と出会って、「ママ」になることがある。

どうしようもない、どん底の苦しみ、痛みに、ただただ、ひとりで涙を流すことしかできなかったことがある「ママ」は、あの頃の涙で「わたしの世界の法則」が柔らかくなっちゃって、

「ママ」が「赤ちゃん」を育てて、守るとき、というのも、「そうすべき」というよりも、「そうしたい」「ただそうする」という自然な心の感覚が、よく、感じられる。

「わたしの世界の法則」あるいは「みんなの世界の法則」を軸にするのではなくて、ただ、自然な感覚に、自然と身をゆだねるのかもしれない。

 

 

すると、その、内側の奥にある「自然な感覚の源」は、「わたしの世界の法則」も「誰かの世界の法則」もこの世界のありとあらゆる法則も、そのすべてを愛で包み込んで、以心伝心という驚きな喜びを体験させてくれる。

”わたしは何もしていないのに”、こんなにもたくさんのギフトを受け取っているから、「感謝しなければならないから」とかじゃなくて、自然と感謝が溢れ出てくる。

 

 

この、なんらかの「ルールブック この世界のなにか著」みたいなのがあって、もしかしたら、これが、

孤独感、寂しさ、わかってもらえない、理解してもらえない、劣等感や優越感、未来への不安感・・

そういった感覚を、作り出しているのかもしれない。

心が、「ルールブック この世界のなにか著」を大事にしすぎると、源泉を感じられなくなるときがある。

あるいは、両方感じるような気がして、どっちがどっちなのか、こんがらがっちゃうことがある。

じゃあここで「わたしはあの頃、ちゃんと涙を流せなかったかもしれない。歯を食いしばって明るいふりをして、頑張るのが、いいことだって、そうやって自分でなんとかすることがいいことだって、思い込んでいたから、ちゃんと涙を流せなかったかもしれない」というときは、どうしたらいいの?というと、

「書を捨てよ、町へ出よう」と浮かんできます。(寺山修司さんの著作権さんごめんなさい、言葉だけ借りちゃいましたごめんなさい)

「書を捨てよ」なのです。(寺山修司さんとは関係ないです、ごめんなさい)

「書を捨てよ」ここが肝心、ということは、「(とりあえずなんかよくわかんないけど)書を捨てよう」という意図設定が大事ということです。

 

 

これは誰にでも言える、確かなこととしては、心もあるし、源泉もある、これはほじくり返したり、開発したりしなくても、ある。

だから「おでこにあるメガネを探す旅」なのだけど、「鏡、みてみたら?」と言われると、なぜか、抵抗を感じるときがある。

わからない、鏡で見る方法がわからない、と言いたくなるときがある。

「いや、鏡見たけど、ないんですけど」「で???」というときは、焦点が、「探しているもの」じゃないところに釘付けになっている可能性がある。

「鏡で見て、自分はセーターを着ていることがわかりました。でも、ずっと探しているものがありません。幸せも喜びも解放もありません」というとき、自分が本当の本当に探したいものじゃなくて、セーターに釘付けになっている、ということ。

例えばだけど。そんな感じ。

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