ゲーム=ビッグバン〜この世界。肉体(脳、五感、それらに紐づけられた記憶や情報)。その肉体的理解としての、わたし、あなた、あの人、政治、宗教、悪霊、高次元存在、アセンション、「魂レベル」。
ゲームのプログラミング=分離、自我想念、自我意識、エゴ、支配
ゲームのプログラマー=分離、自我想念、自我意識、エゴ、支配
みたいな。
ゲームもプログラミングもプログラマーも、神とは一切関係ない。
奇跡を起こすのは神。それ以外はトリック。
神は分離や自我を認識していない。そして愛だけを、奇跡だけを、創造しつづけてる。
みたいな。
言葉には、さまざまなしがらみがつきまとう。すべては方便でしかない。
神は、それでいうなら、「エネルギー」。
ゲーム機器を充電しつづけているエネルギーそのもの、みたいな。電力というか。
このゲームに没頭していると、いいときもあればわるいときもある。「書き換えられる!」と思うのも、自我意識のなかでのこと。
あるときまでは「ゲーム楽しい!」「ゲームの世界で上手にやりくりしたい!」と思ったりする。
でも、あるとき、「充電がもうなくなります」みたいなときがくる=絶体絶命、苦悩、八方塞がり、鬱、闇、病、とにかく苦しみのどん底
ここで、ふと「あ、そっか、これはゲームだったんだ。神はこっち」と「充電そのもの」を深く感じる。
なので、うまくいってないときのほうが、神に近いのですよ。
好事魔多し、といいますが、うまくいってるときみたいな、運気がいいときみたいなのは、充電のことも、電気のことも、すっかり忘れて、ゲーム(分離の幻想)に没頭できているときなので「自我」に没頭しやすいですよ、という感じ。
そして、自我というものに、わたしたちは、踊らされてきたし、苦しめられてきた。恐怖、恥、罪悪感、破壊、破滅、死、殺。ここは自我の管轄(ゲーム全体)であって、神は一切関与していない。
苦しいのは自我のなせる技で、神はそれとはまったくことなる心の平安として、ずっと共にある。
自我とはそういうもので、肉体を持っているということはそういうこと。これは、もちろんわたしも含めた全員がそう。
「目覚めのプロセス」みたいな言い方をするのであれば(?)「自我を目撃、直視、受け入れ、観察、認める」をしている、そうしたい、みたいな。
ゲームではなくて、エネルギーの方に、「電力はありました!ずっとここに!」というのが、「自分」が「ずっと探し続けていたもの」で、すべての悩みが、一括で、悩みが悩みでなくなる、ということ。ずっと抱えていた問題のなかの愛を受け取れる、ということ。
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たとえば、自分が自分の声を聞くというのも、どんな自分も自我(エゴ)も感情も等しく認めて受け入れていくというのは、一人ひとりが自分の「しがらみ、呪い、支配」を切っていくようなものでもあって(自然、無意識、無自覚的にです)
鏡というのは固着した自我の思考パターンの消去(自然、無意識、無自覚的にです)=内側の原因としての自我か消えるので、自動的に外側が変わったりする
ゲームの登場人物でも、プログラマーでもない。
それを、超えたところにある「唯一の創造、奇跡、愛」ここにつながる、つながりつづけると、ややこしく考えていたことが、シンプルだったことがわかってしまう。
シンプルで、苦悩が簡単に終わってしまうことを、
理解を超えた、完璧でしかない、奇跡、愛、豊かさ、自由を、「自我」というのは、嫌がるものなんですよ、そして、それが悪いわけでも劣っているわけでもない。
「探してたメガネは、頭の上にありました!笑」みたいなことを、認めたくなて、探し続けてるのが、「自我」笑