ringo活動(ブログやセッション)をはじめたのは、2018年。
今、7年目・・?
ちょうど、旧ブログから、現在のブログに移り変わる直前だったか。
わたしは、赤ちゃんのようになっていました。
目に映るものすべてが美しく、輝いていて、こんなにも美しい世界に生きていたのかと、毎日感動していたことを思い出します。
同時に、自分の中で、「今までの習慣」のいくつかが、どうでもよくなっていった。
2018年〜何年間か、私は髪の毛をブリーチしていたのだけど(白髪を目指していた)これは、あるとき、どうでもよくなった。
そして、化粧。
ある日突然、化粧をする意味が、わからなくなった。
その後も、何度か、過去の習慣を維持しようとして、化粧をしようとしたり、まつげエクステに通ったりしてみたけれど、なんというか「通っても通わなくてもどちらでもいいので、通わない」という感じになった。
だから、もしかしたら、これから「通っても通わなくてもどちらでもいいから、通う」となることもあるかもしれないんだけど、この辺りはもう、完全に、ゆだねている。
※ちなみに、今、ネイルサロンに通っているんだけど、これは完全にガイダンス。この話は、神様から神の子としての私たちへの素敵なギフトだったので、またどこかでできたらいいなと思います。
あと、わたしの場合は、もうずっと長い間、健康オタク、健康マニアで、化学物質過敏症(化学物質だけじゃなくてなんでも過敏症)みたいな感じで、食事療法だったり、食べ物だったり、使用する洗剤だったりを、メチャクチャにこだわり抜いていたのだけど、
これも、あるとき、「抜け落ちた」みたいになった。
なんというか、食べることの目的や、家事をする目的などが、変更になった。
(身体的な)過敏症、過敏症体質みたいなものは、「治った」と書くのは、ちょっと違う感じもするんだけど、前に比べると、かなり、気にならなくなったというか、ストレスにならなくなったというか、なんというか。
あとは、かなりの酒好きだったのも、ある日突然、欲さなくなった。
これも、何度か、ぶり返し(その後で、何度か、過去の習慣を維持しようとした)で、飲んだりもしたんだけど、なんというか、味が、以前と違う味になっていたし、
「アルコールによって酔う」という感覚も、以前とは、全く違ったものになっていた。
他にも、たくさんの習慣が、終わりを迎えていって、
たくさんの「極端」が、どちらでもよくなっていった。
このことは「いいこと・悪いこと」とか、そういう話ではない。
ただ、私の目に映るものは、すべてが美しく、輝いていた。
「なんか汚いと思っていた川」とか、「なんか暗くて、波動低そうだと思った池」とか、
「エネルギー重いの建物」とか、
そういったものが、すべて、美しく、輝いていた。
「わたしが目覚めるとき、世界が目覚める」
「わたしが光を受け入れるとき、世界に光が訪れる」
そんな言葉が浮かんだ。
そして、これは、明らかに、
ブログやセッションのおかげであり、
つまりそれは、読者さんやクライアントさんのおかげであり、
(もっというと、家族、スタッフ、全ての人々・・)
わたしは、癒すことによって癒された。
「する=される」ということを、何度も何度も、ブログやセッションで書き続けて、言い続けていたけれども、
癒す(する)ということは、癒される(される)ということなのだ。
愛するということは、愛されるということ。
そして、どう考えても、「人物としてのこのわたし」が「癒した、治療した」ということは、あり得ない。
それから2年くらい、エネルギーの逆回転を体験していた。
今も、逆回転中で、その逆回転が定着しつつあるけど、
最初の頃は、かなり、きつかった。違和感あった。
でも、このきつさ、違和感は、「成長痛」のようなものだという自覚があった。
そして、この「成長痛」のおかげで、わたしは、ますます、内なる感覚に、神に、心を傾けることになった。
「成長痛」といっても、自分の自覚的には、赤ちゃん化している感じです・・。
赤ちゃん化というか「幼稚園だったか、小学生だったか、わたしがまだ、この世の苦しみをわかるふりをする以前」の頃の感覚がメインになっている感じです。
そして「この世の苦しみをわかるふりをする以前」に、できていたこと、感覚していたこと、
でも「この世の苦しみをわかるふりをした以降」は、できないふり、わからないふりになっていたこと。
そんなことが、どんどん、明らかになっていった。
離れていく人は、たくさんいた。
「人物としてもこのわたし」は、とても、さみしかった。
できれば一緒にいたかったし、あなたの中にある光の強さがわたしには見えている。
でも、この世界には、時間と空間がある。
「一人ひとり」の「タイミング」は、「一人ひとり」が選ぶ権利、選ぶ力がある。
わたしは、それを尊重しつつ、神様タイミングだけに従いたい、と願い続けて、
今では「従います」という決断、宣言にまで、なった。
「誰かさん」は、「この世界で離れるように見えるときこそ、本当に近づいているんだ」という。
「愛と感謝がなければ、離れることも、出会うことも、再会することも、できない」という。
落ち込もうと思えば、落ち込めたのだろうけど、このときもまた、
「この世の苦しみをわかるふりをするか、しないか」自分が選んでいる感覚があった。
今、これを書きながら思ったんだけど、「嫌われたり、攻撃されたり、批判されたり」あるいは「綺麗な言葉で”いい感じ”でコントロールしようとしてきたり」「いかにも理知的な感じでいい感じで批判されたり」というそのときは、
はじまりと終わりが、一つのときなのかもしれない。
書きながら、思った。
そうか、だから「攻撃されること、嫌われること、足を引っ張られること」などの「(エゴの方を)されたとき」を、恐れなくていいんだ。
これは「自分の話」とかで書いてるんじゃなくて、
「どうしても嫌われるのがこわい」というお話を聞くたびに、「なんでだろう?」と、わたしは思っていたんですよ。
その答えを、今、受け取れた感じです。